丸山城  No27322−03 (まるやまじょう)       

南腰郭から丸山神社を 北郭北側の堀切

城郭の概要                  
<主郭の土塁>
別  名 :
所在地 : 豊能郡能勢町地黄
築城年 : 長元年間(1028〜37)
形  式 : 平山城(標高278m)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、土橋、
訪城日 : 平成21年12月27日 

歴   史
丸山城は、長元年間(1028〜37)に能勢頼国によって築かれたと云われる。
能勢氏は、清和源氏頼光流で、摂津源氏の祖である源満仲の嫡男・頼光の子の頼国が能勢に入府し、能勢氏を称したことに始まり、代々能勢氏の惣領家として武威を振るい、室町期には幕府御家人として北摂屈指の勢力に成長し、能勢頼道は将軍足利義輝に仕えた。
天正7年(1579)織田信長が北摂に進出したが、これに従わなかったため、天正8年(1580)織田方の下山城主塩川長満に謀殺された。頼道の跡を継いだ弟の頼次は、天正10年(1582)本能寺の変の際に明智光秀に加担し、豊臣秀吉方の来襲の危機を迎え、一族数名とともに落ち延び一時没落したが、慶長5年(1600)の関が原の戦いでは東軍に付き、その戦功により旧領に復帰した。慶長7年(1602)から地黄陣屋の築城を始め元和元年(1615)に完成させ、旧城の丸山城は廃城となった。
旗本能勢氏は、代々この地を治め、明治維新まで続いた。
なお、能勢氏の祖および築城者を能勢頼国の曾孫である国基とする説もある。

構造と感想
丸山城は、地黄の北西に北から南に延びた舌状尾根の先端部に築かれている。摂津から丹波へ通じる交通の要衝地であり、また、この地域としては耕地も広く、能勢氏の本拠地となった地域である。
北の丘陵続きを堀切で断ち切って、南側の先端部に連郭式に郭を配しており、その規模は南北約155m、東西約30mである。南寄りの頂部に南北約40m、東西約20mの主郭を置き、北面に土塁が設けられている。4m程下がった四周には巾3〜4mの帯郭がめぐり、主郭南下の帯郭に丸山神社が建ってられいる。さらに南側に台形状の腰郭が付帯し、その北西隅に南西麓からの大手道が取り付いている。帯郭の北面には、「コ」字状の土塁があり、中央の開口を通り南北約27m、東西約13mの郭へと通じる。その北は堀切を隔てて二つの郭があり、北端が現在は道路となっている大堀切である。

道 案 内
京都縦貫道亀岡インターを下り、国道423号を能瀬方面に14km程来た妙見口交差点で右折し、府道4号線に入る。1.5km程先の野間トンネルを越える。更に府道4号線を道なりに3.7km程走ると野間稲地交差点に至る。ここを右折し国道477号に入り、北に1.6km程行って左折すと200m程先の山裾に清普寺が見える。この寺に駐車し、東側の丘の先端が城跡である。丘の南西麓に高い宝塔が建てられているので、この脇から登ると丸山神社前に至る。

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