野間城 No27322−02 (のまじょう)       

背後の大堀切 主郭の櫓台

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 豊能郡能勢町野間中
築城年 : 仁安3年(1168)
形  式 : 山城(標高352.8m)
遺  構 : <山城>土塁、堀切、竪堀、  <居館>土塁、空堀、  <屋敷>石垣、
訪城日 : 平成21年12月27日

歴   史
屋敷跡の石垣
野間城は、仁安3年(1168)に野間高頼によって築かれたとされる。
野間氏につては不明な点が多いが、多田源氏の嫡流摂津守頼盛の子・高頼が野間氏(能勢氏とも)を称し、この地に本拠を置いたとされる。天正年間(1573〜92)には高頼17代の末裔・野間豊後守資持が在城したと云われる。野間城の西方にある大土峠は天正8年(1580)能勢頼次(丸山城)が塩川勢を破った所で、翌9年には野間城の南方山上に為楽山城を築いている。
野間氏は、能勢氏(丸山城)、余野氏(余野城)と共に能勢三惣領の一つとされ、重要な地位を占めたと思われる。

構造と感想
野間城は、西方の大土峠、北東の野間峠、北西の猪子峠に通じる街道が交差する要所を俯瞰し、地黄、倉垣方面を望観する位置にある。
山頂に山城の野間城が、北側山麓に野間氏居館が、さらに北側の平坦部河川合流点に野間屋敷が築かれている。
野間城は、山頂部に主郭を置き、北側一段下がって広き腰郭を付帯させている。その下方は二股に分かれた尾根筋に階段状に4、5段の段郭を配している。丘陵続きの南側背後には大堀切、更に2条の堀切と竪堀を設け厳重に遮断している。また、主郭の南面と東西面の三方に土塁が巡らされ、北側の土塁は神社社殿が建てられる程分厚くなっている。登城路は二股の間を上っている。
野間氏居館は、平時の居館で一面ブッシュと夏草に覆われており、入っても観察できる状態でない。居館は、二段築成で周囲に土塁が巡らされ、山側となる南側には空堀が設けられている。
野間屋敷は、野間川と大原川の合流点に建つ圓珠寺の北東側で石垣が築かれ一段高くなっている。現在、屋敷の一角は住宅地に変貌し、殆ど遺構は残っていないが、西と南には石垣が残っている。また、東寄りに「野間氏発祥の地」の石碑が建てられている。

道 案 内
京都縦貫道亀岡インターを下り、国道423号を能瀬方面に14km程来た妙見口交差点で右折し、府道4号線に入る。1.5km程先の野間トンネルを越える。更に府道4号線を道なりに3.3km程走ると野間中交差点に至る。ここを左折し南に240m程行って野間川の橋を渡り、40m程先のもう一本の橋の手前で左折する。川沿いに100m程行った右手が圓珠寺で、その北東に見える石垣の高台が屋敷跡である。
園珠寺から下流の橋まで戻り、橋を渡って直ぐを左折し、川沿いを東に150m程行き右折する。山に向かい100m程先で左手の土手下の野道を50m入り、右に曲れば左手高台が居館跡である。
野道から山道(参道)に入り、そのまま上って行けば山城跡に至る

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主郭虎口へ        居館西側の土塁