山科本願寺  No26104−08 (やましなほんがんじ)       

御本寺北西部の土塁 内寺内北東部(中央公園)の堀跡

城郭の概要                  
別  名 : 本願寺ノ城
所在地 : 京都市山科区西野山階町、左義長町
築城年 : 文明15年(1483)
形  式 : 寺院城郭
遺  構 : 土塁、堀、虎口、
訪城日 : 平成25年6月16日

歴   史
寛正6年(1465)大谷本願寺は延暦寺宗徒により破却され(寛正の法難)、蓮如は親鸞聖人の御真影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とするが、文正2年(1467)蓮如の隠居と順如の廃嫡を条件として延暦寺と和議を結び、応仁3年(1469)三井寺の庇護のもと大津に顕証寺を建立し、順如を住持として親鸞聖人の御真影を同寺に安置した。その後も延暦寺の圧迫が続き、文明3年(1471)に越前国吉崎に赴き、同年7月に北陸での布教拠点として吉崎御坊を建立した。蓮如は、この地で親鸞聖人の教義を民衆にわかりやすく説き、盛んに「御文章(御文)」や墨書の名号(南無阿弥陀仏)を授与し、文明5年(1573)には「正信偈(しょうしんげ)・和讃(わさん)」を開版するなど布教に努めており、吉崎御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集ったとされる。
しかし、阿弥陀仏の前では皆平等との教えが、古い支配体制からの解放を求める声となり、文明7年(1475)門徒たちは武装して一揆を起こすに至り、蓮如は争いを鎮めるため吉崎御坊を退去し河内へ赴いた。
文明10年(1478)山科の名主・海老名五郎左衛門から寺地の寄進を受け、山科本願寺の造営を開始、「寝殿」「御影堂」そして文明13年(1481)の「阿弥陀堂」の落成をもって「御本寺」部が完成した。文明15年(1483)には「内寺内」「外寺内」も完成し、末寺や各地から集まった門徒、郷民や商工業者たちが集住し、『二木水』天文元年(1532年)8月24日条に「寺中広大、無辺荘厳、さながら仏国の如し」と記される一大宗教都市が形成された。
延徳元年(1489)山科本願寺の東側に蓮如の隠居の地となる南殿が造営されている。明応8年(1499)3月25日蓮如は85歳で西宗寺で没し、その後、第9世法主実如、第10世法主証如の時代になると山科本願寺は本格的に城郭化されていった。
実如は、永正の乱にくみし、戦国大名間の抗争に巻き込まれ、細川春元との不和から天文元年(1532)山科本願寺は延暦寺宗徒や近江守護六角氏、法華一揆の猛攻を受けて8月24日に陥落し、本願寺のすべてが灰燼に帰した。
 
西宗寺(蓮如上人往生の地)      中央公園案内図

構造と感想
山科本願寺は、四ノ宮川と山科川の合流地点にできた扇状地で水田には不向きであったが、東海道から宇治街道へ抜ける分岐点にあたる交通の要所に位置している。南北1km、東西0.8kmに及ぶ広大な敷地を屈曲した土塁と濠で囲繞され、天文元年(1532)年に記された『経厚法印日記』に「山科本願寺ノ城」と記載されるほどであった。
構造は、山城が主流であった中、「輪郭式」の平城で、近世城郭の要素を含んだ「城郭史上、特筆すべき城郭跡」とされている。堀、土塁、柵列、溝、物見櫓風建物などの防御施設が施され、土塁の高さは7mにも及んでいる。現在、その一部は中央公園をはじめ数か所に残っている。
「御本寺」と呼ばれる主郭、主郭を囲むように北・東・南の三方にまわる「内寺内」と呼ばれる二郭、さらに二郭の東側半分から北側に掛けての「外寺内」と南側の「外寺内」が三郭を形成していた。三郭の北側に沿って四ノ宮川、山科川が流下し、二重、三重の防備を誇っている。
しかし、西側は「御本寺」の土塁と濠のみであるが、濠に多数の屈曲を設け横矢が掛けられ、また、濠の西側に西宗寺があり、これらで西面の防御を図ったと推測されている。
今も数か所に残る大規模な土塁を見ると、古文書に「城」と記されたことが十分に理解できる遺構である。

道 案 内
JR東海道本線「山科駅」・京阪「山科駅」から南西へ約1km、地下鉄東西線「東野駅」から西へ約700m。「山科中央公園」の東側に土居が残っています。また、公園の南辺を600m程西進すると「西宗寺」に突き当たりますが、このお寺の東方から南東にかけて広範囲で土居が残っています。
名神京都東インターを下り国道1号線に入り京都方面に1.6km程西進した東野交差点を直進する。その480m先で右折し、350m程北進した右手が山科中央公園で、ここから南に寺域が広がっていた。

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