如意岳城  No26104−04 (にょいがたけじょう)       

東面の内側の虎口を外より 東側の内土塁と横堀
東端の三重横堀 北側の横堀

城郭の概要                  
別  名 : 如意嶽城
所在地 : 京都市左京区鹿ヶ谷大黒谷町
築城年 : 文明元年
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、横堀、竪堀、堀切、土橋、虎口
訪城日 : 平成25年6月16日

歴   史
築城の時期や築城者は定かでないが、文明元年(1469)近江の多賀豊後守高忠が陣取ったと『応仁別記』(15-16世紀頃)に記されているのが初見で、応仁の乱の頃から陣塞化されていたようである。享禄3年(1530)細川高国が陣を敷いたとされ、また、天文18年(1549)細川晴元、六角定頼が足利義晴・義輝父子を奉じ陣を構え、隣峰に中尾城を築城している。
天文19年(1550)に義晴は近江で死去し、その子・義輝が中尾城に入り三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま自焼して近江堅田から朽木へと逃れている。永禄元年(1558)にも六角義賢の支援を受けて義輝と三好長慶が抗戦した際も義輝が陣所として使用した。さらに、元亀元年(1570)浅井・朝倉軍が織田信長と対立した志賀の陣での使用も考えられる。

構造と感想
如意岳城は、京都五山の送り火で有名な大文字山の山頂に所在し、京と近江を連絡する今路(志賀)越と東海道を眼下にする最大の要衝地に築かれた城郭である。この城は、恒久的な城郭ではなく陣城とされるが、京都周辺の山城としては屈指の規模の縄張りを誇っている。
構造は、大文字山山頂に主郭を置き、西方の鞍部に二本の堀切を備え、主郭の南側を除く三方を取り巻くように十数段もの帯状の腰郭を付帯させ、その外縁に横堀を穿ち、一部には土塁も伴っている。横堀の南端には土塁に開口部を設け、横堀に架かる土橋を渡り東郭に通じる平入り虎口が構えられている。
さらに東側には緩斜面が続き、その東端に三重の横堀と北に下る竪堀を設けて、城域を区画している。東郭は三重横堀の内堀から西方向に伸びる横堀で南北に分割されている。東郭の南側には、土橋付きの堀切があり、南西側が竪堀で落ちている。
恒久的な城郭でなく陣城とされるが、横堀は長大で、土塁も分厚く、虎口も明瞭で、見事な遺構が残っている。比高が370mと体力を消耗するが、景色、遺構とも見応えのある城跡である。

道 案 内
府道101号線を東進し突き当たりの銀閣寺(慈照寺)総門前で左折する。北60m程先の八神社手前のT字路で右折し、東に90m程行くと朝鮮学校入口との分岐に至る。その右手の駐車場から谷筋に登山道が伸びており、それを登って行くと「国有林からのお願い」の大きな木製の看板が設置されている。看板裏の右側へ向かう階段から山道に入る。この先は大文字山の小さな案内板に従い登って行き、急な長い石段を上がり切ると大文字の火床に出る。火床から更に階段を上がり、山道を登るとピークがあり、鞍部に降り、再び登ると大文字山山頂でこの一帯が城跡である。

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山頂の主郭                主郭よりの眺望
 
大文字の火床           南東部の竪堀