中尾城  No26104−05 (なかおじょう)       

主郭部南側の堀切と土塁 主郭部北郭の北西端の土壇

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 京都市左京区浄土寺大山町
築城年 : 天文18年(1549)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、土橋、虎口
訪城日 : 平成25年6月16日

歴   史
主郭の南方向
天文18年(1549)に幕府奉公衆のほか 細川晴元、六角定頼の協力を得て足利義晴が築いたとされる。天文19年(1550)義晴は近江穴太で亡くなり、その子・義輝が京奪還を目指して中尾城に入るが、三好長慶に攻められ自ら城に火をかけ近江坂本へと敗走した。その後、三好方によって中尾城は激しく破壊された。

                

構造と感想
銀閣寺を含む東山山荘は、将軍足利義政の隠居所として造営され、中尾の峰にも 「義政公遠見やぐら」が築かれていた。その後、銀閣寺は戦乱時の将軍家の避難所として機能し、将軍義晴によって銀閣寺背後にあたる中尾山にも山城が築かれた。これが中尾城である。北方の将軍山城と呼応して志賀越えを押される戦略目的を持っていた。
構造は、大文字山から続く尾根筋の一支尾根にある中尾山を二重堀切で遮断し、北に向かって連郭式に四つの郭を連ねている。南端の二重堀切を越えると尾根筋に沿って土塁で仕切られ北東側に張出す出郭、その先の鞍部に穿たれた鋭い堀切を隔て主郭部となる。主郭部は殆ど高低差がなく、土塁と小切岸で三つの郭に区分されている。中央が主郭で南面が土塁、北面が小切岸で、南郭と北郭とになる。主郭の東面中央には虎口が開き、北郭の北西面に土塁と土壇が付帯している。郭面はよく削塀されているが、南北150m程で、幅も10〜30m程の小さな城で、特徴的な縄張りも見られない。
しかし、鉄砲への防御を施した城との記録が残っており、見えないところで先進性のある城かもしれない。

道 案 内
如意ヶ岳城の帰路に訪城する場合、府道101号線を東進し突き当たりの銀閣寺(慈照寺)総門前で左折する。北60m程先の八神社手前のT字路で右折し、東に90m程行くと朝鮮学校入口との分岐に至る。その右手の駐車場から谷筋に登山道が伸びており、それを登って行くと「国有林からのお願い」の大きな木製の看板が設置されている。看板裏の右側へ向かう階段から山道に入る。この先は大文字山(山頂が如意ヶ岳城)の小さな案内板に従い登って行き、急な長い石段下に出た所の左手に尾根筋を進む道が分岐している。如意ヶ岳城へは石段を登って先に行くが、中尾城へはこの分岐した道を行く。分岐道を下ると広い谷間に出る。ハイキングコースが交差しているが、直進方向(北)へ進み、一旦尾根に登り、尾根先端手前で右手に下る脇道を進むと南端の堀切・土橋に至る。ここから北が城域である。
なお、右手の駐車場から谷筋に登山道が伸びており、それを登って行くと左側の石垣が終わった所に案内板があり、大山出城を経て中尾城に登れる道もある。 

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分岐点の目印    分岐する道      南端の堀切・土橋