No25521−01 田屋城 (たやじょう)       

口ノ丸の枡形虎口と櫓台 奥ノ丸背後大堀切の畝状空堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : マキノ町森西稲山
築城年 : 戦国後期
形  式 : 山城(標高310.1m)
遺  構 : 土塁、堀切、土橋、竪堀、畝状空堀群、枡形虎口
訪城日 : 平成24年11月24日        (東への眺望)  →

歴   史
田屋城は、山麓の沢村に居館・長法寺館を構えていた田屋氏の詰城と伝えられている。
田屋氏は、在地土豪で、『親元日記』寛政6年(1465)9月10日条に「江州海津衆、饗庭、田屋、新保此三人上洛」とあり、田屋氏と饗庭氏は共に室町幕府執事伊勢氏の家臣・蜷川親賢に仕えたことが知られている。
しかし、海津衆の中で田屋氏が浅井亮政と縁戚関係(女婿)を結び、天文期以降次第に浅井氏の被官になり、浅井氏勢力の高島進出に大きな役割を果たしたとされる。『鹿苑日録』天文7年(1538)9月条に六角方の高島越中守、饗庭太郎左衛門が海津を放火し、田屋氏は「山城に引退」、饗庭氏が海津西浜に居陣したとの記録がある。また、朝倉氏の本拠地・一乗谷朝倉氏遺跡から「御者多屋どの」と書かれた木簡が出土しており、馬事に優れた一族として活躍していたことが窺える。
元亀年間1570〜74)、田屋山城守吉頼は浅井氏に与し織田氏と争い、天正元年(1572)小谷城落城と相前後して田屋城も落城したものと思われている。その後の田屋氏の消息は、森西にある大處神社の天正3年(1575)棟札銘を最後に途絶えている。
   
           奥ノ丸背後の大堀切                      口ノ丸下段の南西方向

構造と感想
田屋城は、マキノ町森西集落の西側の「城山」と呼ばれる標高310.1mの野坂山地から南東に伸びる稲山丘陵の先端部に築かれた山城で、北陸道と知内川沿いに若狭に抜ける街道を見下ろす要衝の地に位置している。
麓の森西集落から登って来ると城の北東端に到達する。北東から南西に東郭、(城道)、口ノ丸下段、口ノ丸上段の土塁の巡る三郭が横一列に並んでいる。登城路は東郭沿いを南西に進み櫓台に突き当たり右折れして、東郭を削り取って土塁を屈曲させ設けられた枡形に入り、枡形内で左折れして城内に入る。
虎口は、常に東郭や櫓台から敵の正面や側面を攻撃でき、また、三郭の切岸には多数の竪堀を配し、敵の横移動を封じるなど巧みな造に驚かされる。また、口ノ丸下段には展望休憩所が建てられており、高島平野や琵琶湖の眺望が素晴らしく疲れが癒される。
さて、城内に入るとまた右折れし、東郭と口ノ丸下段間の城内道を北西に進むと口ノ丸に隣接した中ノ丸、奥ノ丸、(大堀切)、背後の郭へと通じている。中の丸は鞍部に位置し一段低く堀切の役割も果たしたと思われる。その北西一段上には分厚くひときわ高い土塁に囲繞された、南東部に内枡形虎口を伴う堅固な造りの奥ノ丸が築かれており、この城の主郭とされている。
奥ノ丸の背後は、大堀切に土橋が架かり、北東側は4本の畝状竪堀が穿たれ、背後の郭と厳重に画されている。
背後の郭は、土塁等の防御施設を持たない広大な平坦地で、駒返し、搦手へと続いている。背後の郭は、兵の駐屯や馬かけ場に利用されたのであろう。
この田屋城の規模や残る遺構からは、元亀・天正期の緊張状態の中で浅井・朝倉や織豊政権による改修を受けたのでないかと考えられている。
なお、北東側の谷を挟んで並行する尾根上に通称「馬かけ場」と呼ばれる「中の谷の遺構」がある。頂部は二本の横堀で仕切られ、尾根先端に向かい緩斜面が続き、その先端部に中央で屈曲した横堀と土塁を設け尾根続きを画し、北西端に架かる土橋で連絡させている。北東部には土塁で囲った方形区画を設け、北面と東面に横矢を効かせている。その先は円墳が残るなど削平は不完全で不明瞭な状態であるが、織豊系陣城の遺構と見られている。

道 案 内

中の谷遺構の横堀の折れ
国道8号の木之本IC口交差点から敦賀方面の西方向に6.5km程行った塩津交差点で左折し国道303号に入る。国道303号を8.1km程走ると国道161号との野口交差点に至る。野口交差点を左折して国道161号に入り、今津方面に7.8km程行った沢ランプで高架を下りて直ぐの県道335号線の沢交差点を右折する。北に310m程行き橋を渡った所で左折し県道287号に入り、道なりに550m程行った十字路で西方向の細道に左折する。細道を410m程西に進むと森西バス停に至り、右折し北方向から西方向に大きく左カーブし、西に380m程西進すると山裾に突き当たる。獣除けフェンスの中に入ると林道の右手に田屋城址への矢印案内板が出ているので、山道に入り30分程で城跡に至る。
車は道路脇の余裕地に駐車可。

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