No25501-1 井口城 (いのくちじょう)       

城址碑 菩提寺の理覚院

城郭の概要
別  名 : 井口氏舘跡
所在地 : 伊香郡高月町井口
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(居舘) 
遺  構 : なし
訪城日 : 平成22年2月11日

歴   史
井口氏は、近江佐々木氏の一族とも、崇峻天皇の後裔と云う近江中原氏の一族とも伝えられ、中世以来、高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握し、「湖北四家(磯野氏、赤尾氏、雨森氏、井口氏)」に数えられた。
戦国期に浅井亮政からの姻戚関係を受け入れ、浅井氏の重臣に列するようになった。享禄4年(1531)の六角定頼との「箕浦の戦い」で、井口弾正経元は主君の浅井亮政の身代わりとなって討死し、亮政はこれに報いるため、経元の嫡男・経親を重用するとともに、経元の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え、阿古御料は長政を産んだ。その長政は、織田信長の妹・お市を室とし、お茶々(後の淀殿)、お初、お江の三姉妹をもうけ、末娘のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり、その子の家光は三代将軍に、和子は天皇家へと嫁している。
阿古御料は、小谷城落城後に信長に捕らえられ、十指を毎日1本ずつ切断され殺されたという悲惨な記録が残る。

構造と感想
富永小学校の校門横に井口弾正邸跡の石碑と説明碑があるのみで、遺構は何も残っていない。ただ舘跡の直ぐ南東に井口氏菩提寺の理覚院があり、その庭園は小堀遠州作と伝えられる。
明治初期の集落絵図に字殿屋敷(畑)、南に字殿村、集落の南はずれに字殿町が見え、「伊香郡志」は弾正屋敷として上・下屋敷と称する地があるとしており、大規模な屋敷と考えられるが、詳細は不明とのことである。
高時川上流には井口氏が管理していた井関(改築されて現存)が今も残り、取水された用水が村々の水路をとうとうと流れ、中世以来の水利遺産を偲ぶことができる。水路に流れる豊富で清らかな水の流れを見ていると気分が清々しい。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から東に540m程行った木之本交差点を右折し、南に1km行った千田北交差点を右折する。ループ状の高架を登り国道303号に入り、東に900m程行った田部東交差点を右折し、国道365号へ入る。南に2.3km程行った柏原交差点を左折し、北に1.1km程行った左手の富永小学校が舘跡で校門前に駐車できる。

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