No25481-1 須賀谷舘 (すがたにやかた)       

片桐且元の居館跡 観音堂跡

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡浅井町須賀谷
築城年 : 戦国期
形  式 : 平城(居舘)
遺  構 : 郭、石垣
訪城日 : 平成22年2月13日

歴   史

浅井久政は小谷城築城の折、この地を家臣の屋敷地と定めた。この地には、片桐氏が居を構えていた。その片桐孫右衛門(且元の父)が、鷹が巣を造る岩があることから巣ケ谷と呼び改めたと云われている。
且元は、弘治2年(1556)に生まれ、のち羽柴秀吉の小姓として仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦では、七本槍に数えられる戦功を上げた。
且元は、秀吉が亡くなり秀頼の後見となって、豊臣氏の存続が第一と考え支えようとしたが、淀殿や大野春長という強硬派と対立し、ついには徳川方について大坂城に向かって大砲を撃つことまで加担してしまった。
その弟の貞隆は、茶道「石州流」の祖として名を残し、貞隆のあとが大和小泉藩主となって明治まで続いた。いまも子孫の方が「石州流」茶道を伝えていると云う。


構造と感想
小谷城の東の谷に位置し、三方を急峻な山に囲まれている。明治の地積図では、須賀谷温泉駐車場上に土塁状小径とその南東方向に切岸が伸びており、山と土塁・切岸の総構えで区画された集落であったとされる。
総構え上方に削平地が何段かあり、且元公居館跡、その東に観音堂跡と神明宮が並ぶ。観音堂の本尊・観音像は、小谷城落城の難を避けるため、浅井三代の守り本尊をこの地に下ろし安置したとされ、石垣が残っている。

道 案 内
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点を右折し、北に県道510号線を道なりに6.5km程行くと国道365号の郡上南交差点に出る。そこを右折し東に1.1km程行き左手にある須賀谷温泉の看板の所で左折し、北に道なりに980m程行くと須賀谷温泉駐車場に至る。駐車場前で一番左手の道に入り470m程谷の奥へ進むと説明板がある。その下方に居館跡と観音堂跡がある。

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