No25463-08 磯山城 (いそやまじょう)       

北城主郭・磯崎神社の奥宮 遠景・小谷城を望む

城郭の概要
北城主郭南東角の竪堀
別  名 : 虎ケ城
所在地 : 坂田郡米原町磯
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高159.5m)
遺  構 : 堀切、竪堀、削平地、
訪城日 : 平成21年12月12日  

歴   史

南城主郭北側の段郭
彦根市松原を本拠とする松原氏の居城であったとされる。
永正7年(1510)松原弥三右衛門成久が守備する磯山城は、京極氏に攻められ落城し、城主・松原弥三右衛門成久は切腹したと伝わる。大永年間(1521)頃には浅井亮政によって普請が行われ、天文7年(1538)には佐和山城を落とした江南の六角定頼が、江北侵攻に際して磯山を陣所としている。さらに、永禄4年(1561)浅井氏家臣・磯野員昌が佐和山城に入城する前に磯山城にいたとの記録が残る。
元亀元年(1570)には、織田信長の佐和山城攻めにおける付城の一つであったと「嶋記録」に記されるが、「信長公記」では「北の山」と記し、「彦根古絵図詿」では「尾末山」と記している。また、遺構は古式で元亀年間の織田氏の築城形態は認められないとされる。 

構造と感想 現地の縄張図
磯山は、坂田郡と犬上郡の境界に位置し、琵琶湖に半島状に突出した標高159.5m、比高70mの山稜で、東側には旧入江内湖が、西側には旧松原内湖が広がり、また、内湖と琵琶湖の間には砂州が形成され、砂州上を浜街道が通っていた。磯山は、湖上交通と浜街道を押さえる要衝の地にあたり、往来監視のために磯山の山頂に構えられたのが磯山城である。

遺構は非常に不明確なもので、その上公園事業のハイキング道設置で大きく破壊されているが、磯山の北側ピークは小字「トラカシロ(虎ケ城)」と呼ばれ、この城の中では比較的明瞭に削平され、南側に堀切や竪堀を伴っている。現在は磯崎神社の奥宮が祀られている。
また、同じ磯山の南端にも数段の削平地が認められるが、この両者の間には、二つのピークがあるが、自然地形に近く、あまり普請の手が入っておらず、さらに北城は南側を堀切や竪堀で防御しており、南城は北側に多数の段郭を設け防御を固めており、あたかも別の敵対する城のようである。
しかし、同一山塊の上に隣接しており、周囲が内湖と琵琶湖に囲まれている状況から、別々の独立した城とは考え難く、磯山城と磯山の南端の遺構は同じ時期に存在し、別城一郭的な城であったと考えられている。

遺構のほとんどは削平地の連続で、堀切や土塁などの施設があまり認められないのは、古式の形式のためとされている。


道 案 内            
 北城東端の堀切
国道21号の米原IC口交差点を西に2.1km程行った西円寺交差点で左折し、国道8号に入る。国道8号を南に1.4km程行った米原警察署前交差点で右折し、県道329号線に入り、西に2.3km程走ると琵琶湖岸の入江橋交差点に出る。その交差点を左折し、湖岸沿いを南に2.5km程行くと磯南交差点で、その右手に磯崎神社があり、神社の東側背後の山中に城跡がある。

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