No25463-03 太尾山城 (ふとおやまじょう)       

南城主郭 南城北の堀切

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 坂田郡米原町米原・梅ケ原、近江町西円寺
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高254m)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、
訪城日 : 平成22年3月20日      

歴   史
築城は、室町時代京極氏の臣であった在地土豪の米原氏によって行われたと伝えられるが、詳細は不明である。
戦国期の文明3年(1471)に美濃守護代斎藤妙椿が近江に侵攻し、米原山で合戦したとの記録があり、その山が太尾山と考えられている。
天文7年(1538)の六角定頼による江北攻めでは、湖西から参戦した永田氏などが「太尾」に着陣した記録が残る。天文21年には、京極高広が六角方の太尾山城攻略を今井氏に命じているが失敗。永禄4年(1561)になると浅井長政により六角方の吉田安芸守(愛知郡)が守備する太尾山攻めが開始され、磯野員昌・今井定清が夜襲によって攻略するが、今井定清は誤って味方の槍を受け討ち死にしている。浅井長政は、ようやく攻略した太尾山に中嶋宗左衛門尉を在城させたが、元亀2年(1571)織田信長の浅井攻めで佐和山城が開城すると、中嶋宗左衛門尉も太尾山城を退き、これにより南北抗争が終結し、廃城になったようである。

構造と感想

城は、標高254mの山頂にあり、北城と南城から構成される「別城一郭」と呼ばれる構造である。江北と江南の「境目の城」である磯山城や菖蒲嶽城にも同じ構造が見られる。
南城は、中央部の小さな山頂の主郭、その北に東側と北側に土塁が廻る副郭、一段下がって虎口を持つ腰郭が置かれ、その腰郭から北と東に伸びる尾根に堀切を設けて遮断している。主郭の南は一段下がって削平のやや不完全な郭が設けられ、その南端に土壇がある。その先の西尾根は落差を持った堀切により遮断されている。
北城は、北側と東側の一部に土塁を持つ主郭を中心に、北の下方に土塁囲いの郭を置き防御を固めている。主郭から東へ伸びる尾根筋は堀切と腰郭で遮断されている。主郭の南は腰郭、その下方に堀切を置き、更に連郭式に三段の郭が続き、二段目と三段目間に堀切が設けられている。
両城の間は、自然地形のまま残されている。
北城主郭からの眺望は素晴らしく、湖北・湖西への展望が開けるとともに、近隣の鎌刃城、佐和山城などの境目の城を望むことができ、また眼下に東山道や北国街道が通過し、要衝の地であることを体感できる。
近年の発掘調査では、北城・南城の主郭とその北の土塁囲いの郭で礎石建物跡が検出され、出土遺物からも恒常的な施設や生活が営まれていたとされる。また、門や櫓の存在を裏付ける記録も残り、領地防衛の重要拠点であったことが窺える。


道 案 内            
国道21号の米原IC口交差点を西に2.1km程行った西円寺交差点で斜めに左折、国道8号線に入り米原を目指す。南に1.7km程進んだ米原駅東口交差点の一つ手前で左折する。東280m程先の右手が湯谷神社で駐車でき、案内板もある。そこから整備された登山道を20分程登れば南城の北端に至る。

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