No25421-01 百済寺城 (ひゃくさいじじょう)       

復元鳥瞰図 総門前の横堀

城郭の概要        
 北要害の堀底道
別  名 :                 
所在地 : 愛東町百済寺丁
築城年 : 永正~大永年間
形  式 : 城郭寺院
遺  構 : 土塁、堀
訪城日 : 平成23年12月17日 

歴   史

推古14年(606)、聖徳太子の御願によって高麗僧恵慈・百済僧道欽により建立されたと伝わる。平安時代末期の久安元年(1145)には天台宗別院となり、中世には堂塔300余坊、僧俗合わせ1200人を誇る大寺院となったが、明応7年(1498)の自火で本堂付近を焼失し、文亀3年(1503)の兵火(第一次伊庭の乱)でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物をはじめ仏像、寺宝、記録類などの大半が失われた。
その後、「百済寺下用帳」によると永正15年(1518)より大永3年(1523)に六角氏重臣の進藤山城守により要害と大手要害が築かれ城塞化がはかられ、天文5年(1536)の記録で延暦寺法華宗徒との騒乱で百済寺より学生・堂衆が都に出陣していることから、常に多数の僧兵を擁していたと考えられている。
永禄11年(1568)からの織田信長による近江侵攻に対し、在地勢力が巻き返しを図るべく抵抗を続けいたが、元亀4年(1573)百済寺は六角義賢・義治父子による鯰江城籠城戦への呼応に対する報復を受け、焼き討ちされ全山灰塵に帰し衰退した。再建は困難を極めようやく慶安3年(1650)になり本堂、総門、仁王門等が再建された。


構造と感想

南要害の切岸
百済寺の伽藍は、本堂を頂点に西側に約200ケ所にのぼる坊院群が配されていた。これらの坊院群を挟み込む北側と南側の尾根筋上に階段状に削平地が連なっている。北側が北要害で尾先に堀切と土橋、三方を土塁で囲んだ武者隠しを配し、それより東に上昇する尾根筋に17段の郭が設けられ、南北側面は谷に向かう急傾斜地になっている。南側は南要害で総門の南100m地点より東に上昇する舌状の尾根筋上に12段の郭が連なっている。また寺の前面を塞ぐように北要害と南要害を結び空堀、土塁、河川で防御ラインを形成していたと思われる。さらに寺の北方の山上に北坂本城が、背後の大萩には山越えの道路を監視する大萩城が築かれたとの伝承が残されている。
総門前の両側に残る土塁と空掘はまさに城砦の構えそのもので、尾根上の要害も見事に削平され、切岸も落差が大きく急斜面で堅固な守りを窺い知ることができる。

道 案 内            
北要害尾先の堀切
名神八日市ICを出た国道421号の八日市IC交差点を東に2.4km程行った御園交差点を左折する。国道307号に入り北に道なりに3.2km程行った池之尻交差点を右折する。県道229号線に入り、東に道なりに2.1km程行った百済寺本町バス停過ぎで左折し、さらに県道229号線を830m程山に向かって進むと百済寺総門前に至る。そこから斜め左手に450m程上って行くと本坊下の駐車場である。
         

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