No25403−09 垣見城 (かきみじょう)       

南東隅で分岐する水堀 西面の水堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 能登川町垣見殿屋敷・姫屋敷
築城年 :
形  式 : 平城
遺  構 : 水堀跡
訪城日 : 平成25年6月29日

歴   史
『佐々木南北諸士帳』、『大洞弁天当国古城主名札』に垣見城主安部井孫兵衛の名が見え、佐々木氏の家臣で蒲生郡の出と云われている。
建長5年(1253)の「近衛家所領目録」に「垣見庄」の名が見え、延徳3年(1491)12月には「真如寺領江州垣見庄」をめぐり、真如寺(京都市北区)と山門が争論している。
応仁2年(1468)応仁の乱の中で京極持清と六角高頼が「垣見之陣」を戦った記録が残されている。元亀2年(1571)5月、織田信長に反抗して永田栄俊が垣見城に籠城する際、蒲生下郡諸入方奉行・桐原七郷諸寺庵領などを与える六角義治の知行宛行状が残っている。しかし、新村城の落城を受け、開城したようである。

構造と感想
垣見城の伝承地は二ヶ所あり、 「殿屋敷」、「姫屋敷」と呼ばれている。躰光寺川が南に大きく蛇行する金剛寺東側付近の周囲よりも一段高い一角となる小字「殿屋敷」 と 金剛寺南西側の四囲に躰光寺川を巡らせた微高地の一角に「姫屋敷」があり、共に家を建てると「のだたん」(栄えない、悪いことが起こる)所とされている。
しかし、殿屋敷北隣りにも「姫屋敷」とされる所があり、また、躰光寺川の東上流の突出した所にある小字「東出」も城の可能性があるとされ、垣見城の位置は特定されていない。
「姫屋敷」は東西約80m、南北約60mで四囲を深く巾のある水路が巡り、遮断された一画を形成しており、最も城郭らしい地形が残っている。

道 案 内
国道8号を彦根方面から来て宇曽川を渡った次の長野北交差点を右折し、県道20号線に入る。西に3.1km程行った彦富交差点で左折し、県道2号線に入る。県道2号線を南に2.9km程行った大きな右カーブを曲がり切った所の小さな十字路を左折し、集落内に入る。左折から100m程集落に入った右手が「殿屋敷」である。
「姫屋敷」は、大きな右カーブから更に500m程道なりに県道2号線を進んだ能登川中学校前交差点で左折する。県道52号線に入り240m程東進して左折して北に50m程入った所である。

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