種村氏の居城である。
種村城が築かれていた種村は、愛知川の南岸に位置し、北は愛知川を隔てて服部(彦根市)と川原(旧愛知川町)に面し、東南は神郷(神江)、南から西にかけて佐野、今に接する集落で、種村氏の本貫地とされる。
『近江輿地志略』に「種村大蔵大夫道成、神崎郡種村の産士也。佐々木政頼の三男を種村伊豆守高成と云、其子伊豆守高盛、其子伊豆守高安、其子道成なり」とある。「近江温故録」には、これ以外に伊庭氏の庶族として、種村三河守貞和、息子の三河守賢仍、庶流の右近亮貞徳、右近介貞俊、兵部丞秀信らの名があがっている。
また、『足利季世記』の永正8年(1511)8月之条「九里被討事」には、加勢衆の中に種村三河の名が見え、これ以降、天文14年(1545)までの間、種村三河の名が頻繁に見られる。『蒲生文武記』に種村三河守居城として「八仏手(やつぶて)城」が見え、小字「屋堂(やんど)」にあったとされる。
なお、「九里被討事」とは、細川澄元に担がれて足利第11代将軍に就いていた義澄が、永正5年(1508)に細川高国と大内義興の担ぐ前将軍・義稙(義材・義尹)の入洛を恐れて近江に逃れた際、六角氏重臣の伊庭氏とその被官九里氏が水茎岡山城に迎え入れたが、このことから細川高国方である主家・六角氏と不和になり、永正8年義澄が死没すると九里信隆が六角高頼に謀殺されている。そして、永正11年(1514)2月には第二次伊庭の乱が始まったのである。 |