No25401-06 甲津畑城 (こうづはたじょう)       

城山 南東背後の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 神崎郡永源寺町甲津畑字藤岡・城山
築城年 : 戦国期
形  式 : 丘城(標高343.4m)
遺  構 : 郭
訪城日 : 平成22年11月27日

歴   史

信長馬つなぎの松
甲津畑城は、速水氏の居城である。
速水氏は、永仁2年(1294)頃に興福寺領の甲津畑公文職に任ぜられた事に始まり、その子信義は塩津の公文職も兼ね、その後裔は六角氏の近習物頭役にも就き、応仁の乱(1467〜77)に参陣している。
永禄年間(1558〜70)の小倉一族の内訌に際しては、小倉宗家に与し和南城主・小倉源兵衛を討つなどしたが、小倉氏はこの内訌により衰退し、蒲生氏の麾下のような存在になり、以後の速水氏は蒲生氏と行動を共にし、程なく六角氏と縁を断ち、元亀元年(1570)5月19日に蒲生、布施氏らと共に「信長の千種越え」を援護したことは有名である。
なお、「近江蒲生郡志八」では明応元年(1492)の足利義稙による六角征伐時の砦跡としている。

構造と感想
甲津畑城は、杉峠を越えて近江と伊勢を結ぶ千種街道を眼下に押さえる位置にあり、近江側に構えられた唯一の城砦である。
城跡のある城山は比高50m程の小山で、頂部と千種街道側の斜面に階段状に郭を配し、背後の尾根を堀切で断ち切った小さな規模の丘城である。
甲津畑小学校に主郭があったと考えられているが、遺構は何も残っていない。小学校の一段下にある浄源寺や更に一段下がった浄光寺は腰郭、また、殿屋敷と呼ばれる速水邸辺りは根古屋であったと考えられている。信長はここでたびたび休憩したとされ、信長馬つなぎの松と呼ばれる立派な松が残されている。

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点を右折し県道188号線に入り、2も直進し紅葉の名所2.1km程行くと和南集落で道が右に大きくカーブし橋を渡るとT字路に行き着く。T字路を左折し県道189号線に入り1.6km程進むと甲津畑集落の入口である。集落に入り370m程行くと小学校の下で、道が狭くなる十字路の左角付近に説明板がある。この周辺が殿屋敷と呼ばれ、小学校の裏手の山が城山である。
なお、集落内は道が狭いので集落北の川沿いの道で城山を大きく右に回り込むように小学校南側まで行った方が無難である。

TOPへ 戻る