No25364−12 25365−14
黒川砦 隠岐城
(くろかわとりで) (おきじょう)

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黒川砦 つぶて石

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 黒川城 別  名 :
所在地 : 土山町黒川字千谷、君ヶ谷、市場 所在地 : 甲賀町隠岐字門ノ内
築城年 : 応仁年間(1467〜69) 築城年 : 元弘年間
形  式 : 山城 形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、空堀 遺  構 : 土塁、空堀、櫓台
訪城日 : 平成23年5月4日 訪城日 : 平成

歴   史

・・・・黒川砦・・・・の城歴等の詳細は不明である。
なお、黒川は黒川氏の本拠地とされ、黒川氏は応仁・文明年間(1467〜87)に黒川与四郎が蒲生郡馬淵(近江ハ幡市)下司職と土山課役を給分として領有した。その後、近江国守護六角氏の配下となり、永禄11年(1568)第15代将軍足利義昭を奉じて上洛する織田信長の近江侵攻に抗しきれず甲賀へ亡命する六角義賢(承禎)を助け、また、甲斐の武田信玄への応援要請の使者として義賢の次男中務太夫賢永と共に家臣辻和泉を甲斐へ下らせている。
天正13年(1585)の甲賀破儀で改易されたが、のち再び本領黒川のみを食封として許された。
しかし、慶長19年(1614)の大坂冬の陣には、豊臣秀頼に属して参軍したため領地を没収されたが、黒川氏の娘が徳川頼宣の側室となり綱教を生んだことで、幕下に列せられて黒川村を領した。その後、徳川氏の旗本として仕え、川西集落の日蓮宗妙蓮寺には黒川氏歴代の墓所が営まれている。
黒川地区の北、鮎河地区には織豊期の黒川氏城が残る。
・・・・隠岐城・・・・は、『甲賀郡志』に「元弘年間(1331〜33)佐々木兵庫頭清三(隠岐国主佐々木判官義清の遠孫と云う)城を築きて之に居り、祖先は隠岐国主なるを以って氏を隠岐と改む。後孫右近太夫頼廣に至り遂に城邑を失ふ。」とある。
隠岐家は、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を与えられるほど信頼の厚かった家で、甲賀二十一家の1つである。


構造と感想
・・・・黒川砦・・・・は、土山町黒川のうち市場集落の東、田村川と笹路川に挟まれた南西にのびる尾根先端部に築かれている。先端の頂部に浅い堀で南北約25m、東西約15mの方形区画を造っている。堀の規模は、南面で巾1.5m、深さ50cm、北面で巾約1m、深さ30cmで、東と南面には高さ約1mの土塁をL字状に回している。なお、郭の端部には、拳大の「つぶて石」と思われる石の堆積が認められる。
・・・・隠岐城・・・・は、甲賀町隠岐のうち門ノ内集落の北、佐治川北岸の丘陵先端、現在は大岡寺の境内となっている周囲よりおよそ10m高い鞍部を隔てた独立丘陵上に築かれている。改変が著しく全体像の把握は困難であるが、本堂の建つおよそ50m四方が郭であったと思われる。境内地の北面と南西部に土塁の基底部の高まりが残っており、土塁が全周する郭が想定される。虎口は南面の中央(寺の正面石段となっている。)で、その東側が張出しており、横矢が掛けられる構造になっている。丘陵は北東側へ続いているが、遺構は認められない。

道 案 内
・・・・黒川砦・・・・は、新名神土山インターを下り、国道1号に向かう。国道1号との前野交差点で右折して国道1号に入る。国道1号を5.1km程東進した猪鼻交差点で左折し県道507号線に入る。県道507号線を道なりに1.6km程行くと突き当たりT字路に至る。そこを左折し70m程走ると左手に公民館があり、駐車できる。T字路付近の住宅奥に獣除けフェンスの扉があり、そこから直登する。
・・・・隠岐城・・・・は、新名神甲南インターで下りて最初の交差点の甲南IC口交差点で左折し、広域農道に入り560m程北進すると新治口交差点に至る。新治口交差点で右折して、新名神沿いを東に980m程行った十字路で左折し、県道133号線に入る。県道133号線を道なりに1.8km程行くと県道127号線との交差点に出る。交差点を直進し250m程先で左折する。左折後130m程行った葛木地蔵前交差点で右折する。その先を道なりに2.3km程行くと隠岐集落で旧道とのY字路に至る。そこで左手の旧道に入り、直ぐに左折、その先40m行った右手奥が大岡寺で城跡である。

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黒川砦 東面の堀と土塁