No25364-08 黒川氏城 (くろかわしじょう)       

主郭土塁の雁木跡 主郭西虎口受けの石段

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 土山町鮎川字坂尻
築城年 : 永禄年間(1558~70)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、石垣、堀切
訪城日 : 平成23年5月4日

歴   史

黒川氏城は、永禄年間(1558~69)に黒川玄蕃佐が築いたとされる。黒川氏は、観音寺城主の近江守護佐々木六角氏に属し、長享・明応の頃(1487~1501)しばしば戦功を挙げ、黒川久内は六角氏が第9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱・鈎の陣(1487)での功により、感状を与えられるとともに黒川・黒滝を領有、これを子孫が代々継承した。黒川玄蕃佐に至り、山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を領し、その子八左衛門に受け継がれたが、天正13年(1585)豊臣秀吉に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除く地域は没収され城は築城以来20余年にして廃城となった。
しかし、「寛政重修緒家譜」によれば、黒川玄蕃助盛治が六角氏からのち織田信長に仕え、徳川家康のいわゆる「伊賀越え」にあたって弟を人質として差し出し、その後駿府で閑居していた。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合の合戦時には山岡道阿弥に従って東軍に参陣し、戦後甲賀郡内において800石余を賜り、子の盛至の時、咎めを受けて一旦改易されるが、再び旧知を復せられたとある。黒川の妙蓮寺には今も旗本家としての歴代の墓所がある。


構造と感想

黒川氏城は、鈴鹿山脈西麓の山懐に所在する鮎河集落の東端、東野地区の南側、鯎川を挟み対岸の山地がなだらかに連なる尾根部分に築かれている。ここは鈴鹿山脈から流れ出た野洲川と鯎川が合流する要衝の地で、対岸の山の頂上部には大河原氏城が対峙するように築かれており、いずれも鮎川集落の全域を望める山城である。
黒川氏城の城域は、東西約220m、南北約330mに及び、甲賀地域では水口岡山城に次ぐ規模を誇る。主郭は頂上部分に築かれ、長方形で東西30m、南北40mの広さを持ち、周囲を高さ2m程の土塁で囲繞されている。虎口は西面と北面に設けられ、虎口の周りは石垣で固められ、土塁内側は石を階段状に積み上げた雁木となっている。西虎口を出て階段を下りると方形の虎口受けで、左に曲がり南側へ下りる石段と脇石垣が良く残っている。主郭の南側は深い空堀と内に小段を伴う土塁、土塁の東端部が櫓台状の郭、堀切を連続して設け、南側の尾根続きをしっかりと防御している。虎口受けの南側から西側の下方に数段の郭が連なっている。西に伸びる尾根筋が搦め手である。
主郭の北西から北側に掛けても空堀と内に小段を伴う土塁が築かれ、土塁の北西隅には張出した小郭があり、主郭北虎口から土塁東端の小段部に下り、小段を通り土塁の切れ目から張出した小郭に出て、主郭北側に続く上級家臣団屋敷地内を北に降るルートが大手道である。小郭を通り過ぎ小段を西側へと回り込むと主郭西虎口および西尾根の搦め手道へと至ることができる。
張出し小郭を東に出て堀底道を北、西、北に曲って大手道が集落へと降るが、大手道沿いに土塁囲いの屋敷地が整然と連なっている。西側最上段の屋敷虎口は石垣で固められている。

黒川氏城は、方形主郭を土塁で囲む所は甲賀の城の基本タイプであるが、主郭の南や西尾根に郭を幾段にも設け、そして北には家臣団屋敷を整然と配置し、また、横堀を縦横に設け、通路(堀底道)として使い、敵を迷路に誘い込み、横矢等で攻撃する複雑な縄張りとしている。さらに、自然石を随所に使っており、いわゆる甲賀の城とは全く違った城に驚かされる。


道 案 内
黒川氏城は、新名神土山インターを下り、国道1号に向かう。国道1号との前野交差点で右折して国道1号に入る。国道1号を1.3km程東進した土山支所前交差点で左折し県道9号線に入る。県道9号を道なりに5km程行くと青土ダムに至り、ダム堤体上を通り更にダム湖・野洲川沿いに4km程進むと突き当たりのT字路となる。T字路を右折し県道507号線に入り2、300m程行った左手道路脇に小さな黒川氏城の説明板が建てられている。その付近から西に張出している尾根に取り付き直登すれば城跡である。

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南端の堀切            主郭の南方向
 
屋敷の虎口石垣         主郭の横堀
 
黒川氏の墓所        仕切りの石塁