No25364−07 土山城 (つちやまじょう)       

現地の縄張図 T郭 北方向(奥は北面の虎口)

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 土山町北土山字髭屋敷、松ノ木谷
築城年 : 文明年間(1469〜87)
形  式 : 丘城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、土橋、馬出、池
訪城日 : 平成23年5月4日

歴   史

X郭 W郭外側の角馬出状空間
土山城は、文明年間(1469〜87)に音羽野城主頓宮四方介利盛の二男土山鹿之助盛忠の築いた城とされる。天正10年(1582)土山左近大夫盛綱に至り、織田信長の家臣である瀧川一益のために亡ぼされ、遂に廃城になったとされる。
なお、土山鹿之助は、鈎の陣で戦功があったとされる甲賀武士五十三家に数えられる有力な甲賀武士である。
しかし、残る遺構には、甲賀国人層の城郭に見られない縄張りがあり、天正期(1573〜92)以降の織豊政権下で改修された可能性を複数の城郭研究者が指摘している。天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦時に羽柴(豊臣)秀吉が緒戦時の3月13日に蒲生氏郷、甲賀衆らを伊勢方面に出撃させ、甲賀から伊勢の間に三ヶ所の築城を命じている。また、終盤の10月24日に秀吉が土山に着陣しており、この合戦による秀吉軍による改修を受けた可能性が考えられている。

構造と感想

土山城は、鈴鹿峠を越え伊勢に向かう東海道沿いの土山宿北方、北から街道や平野部を俯瞰することの出来る尾根の先端部に築かれている。
残存する遺構は、尾根筋を上った最初のピークに高さ0.5〜2m、上幅2m程の土塁に囲繞された東西約35m、南北約25mのT郭(主郭)が存する。土塁は北東隅部が一段高く、幅も広いので櫓台と見られている。T郭の周囲には堀を巡らし、尾根続きの北東側は二重堀にし、その西端部に竪堀を落としている。虎口は南・北面に開き、北面の虎口はT郭西側から北側の堀を回り込み竪堀の手前から虎口へ登る進入路が設定されていたとも、池に下りる水の手道であったとも推測されている。南面の虎口がメインで、外側には土橋を介して、土塁で三辺を囲まれた角馬出状の虎口空間U郭が設けられている。その土橋東側の堀の東端には、土橋状の仕切りがあり、W郭からT郭東側の横堀土塁へ連絡する通路として機能したと思われる。
U郭の南西側は尾根が二股になり、それぞれの尾根にW・V郭が構えられている。U郭前面の南面に虎口と土橋が設けられ、W郭へとつながっている。W郭の南端にも堀を隔て角馬出を意識した土塁囲いの虎口空間X郭を構え、その外側で尾根先端部を断ち切っていたと思われる。しかし、現在はU郭と同様に南面に虎口と土橋が設けられ尾根先端につながっているが、自然地形で遺構は見られない。
城道は、二股尾根の谷間を登り、右に折れてX郭とW郭間の堀に入る。さらにW郭南東側の帯郭状通路へ回り込んで角馬出状虎口空間のU郭へ達していた想定されている。この間にはV郭、X郭、W郭からの攻撃にさらされ、T郭への到達は到底困難に思われる。
V郭は北側に土塁と堀が設けられ、南端は浅い堀切があり、その先は自然地形である。V郭とW郭の間は、谷奥で谷より一段高く、両側の郭より一段低い平坦地となっており、城道を抑える郭として機能したと見られる。
このように馬出の虎口空間を構築している城郭は、甲賀は云うに及ばす近江の土着勢力の城では存在せず、史的経緯や改修主体が史料から推定され、年代観のある遺構が残り、貴重な城郭遺構と評価されている。
遺構の残りも完ぺきで手入れもされており写真の通り見応え充分で、大いに満足できる訪城であった。


道 案 内
国道1号と国道307号の交差部から鈴鹿峠方面に向かって10km程行った土山町の「土山支所交差点」を左折し県道9号線に入る。北に210m程行った十字路を右折し、通称「トラバースロード」に入る。東に350m行った十字路を左折し住宅地を北東に向かう。80m程先の左手に集会所があり駐車させていただき、その先を右に曲った所に城址碑や説明板が建っているので、脇の道を山手に向かい入って行くと5分程で城跡に至る。
T郭 虎口と土橋 T郭 南側の横堀

TOPへ 戻る