No25363−08 No25363−09
北脇城 柏木神社遺跡
(きたわきじょう) (かしわぎじんじゃいせき)

南側の土塁 柏木神社本殿

城郭の概要                 城郭の概要
別  名 : 別  名 :
所在地 : 水口町北脇字北山 所在地 : 水口町北脇字藤木
築城年 : 築城年 :
形  式 : 平城 形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀、虎口、 遺  構 : 土塁、堀、
訪城日 : 平成23年3月19日 訪城日 : 平成23年3月19日

歴   史
・・・・北脇城・・・
文献資料が発見されておらず、城歴は全く不明であるが、柏木地域を支配していた山中氏に関係があると推測されている。

・・・・柏木神社遺構・・・・
遺跡は、江戸時代甲賀古士の由緒によって許された屋敷跡と伝えられるが、戦国期に山中氏が築いた居館の一部とも考えられている。
神社の由緒は、白鳳元年(673)創建で、建久年間(1190)源頼朝が鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を合祀して多くの神田を寄付した。以後社名を若宮八幡宮と称し、柏木荘十六か村の鎮守のお社として栄えた。天正8年(1580)織田信長勢が当地を攻めた時、桜門は安土の宗玄寺に移築され、宝物・古文書等は焼失した。寛永9年(1632)水口城が築かれた際に、城主が当社を守護神として崇め、以後歴代城主の祈願所となった。承応4年(1655)水口城代の山口但馬守が本殿・桜門を修復し、石灯籠・手水鉢を寄進している。明治4年、社名を柏木神社と改めている。

構造と感想

・・・・北脇城・・・
北脇城は、近世東海道の北方700m、東西方向に伸びる比高20m程の水口丘陵の南斜面裾に位置している。その丘陵頂部近くには、見張台と思われる土塁を伴った郭があったと記録されているが、工業団地の造成により消滅し、現在では丘陵裾に東西150m、南北90mの館遺構のみが残っている。
館遺構は、土塁と空堀に囲繞された50m四方の方形区画を二つ並べ、更にそれぞれの内部を土塁によって区画した複雑な構造を呈している。土塁の規模は、基底部で8〜10m、高さ1.5m前後、堀は上面巾約5m、下面巾約2m、深さが2m程となっている。虎口は、西側の郭が城域の中央に南北に穿たれた堀に向かって開口し、東側の郭は南側土塁に開く二ヶ所の開口部のどちらかが虎口であろうと云われている。
城域の北端から三分の一辺りに東西に貫く幹線水路が設けられたため、各区画がどのような関係を持って配置されたのか分からなくなっている。
訪れたときは、南端の竹藪が切り払われており、南側の土塁は良く確認できた。内部は竹や雑木が繁茂し写真はなかなか撮れないが、中に入ることができ、概ね遺構を確認することが出来た。

・・・・柏木神社遺構・・・・
柏木神社遺跡は、近世東海道の北方約350m、北脇集落の北東端に位置する柏木神社の境内にある。遺構は、同社の本殿などを囲む土塁や空堀、そして本殿の北東側の境内林に約50m四方で空堀に囲まれた方形の区画からなっている。空堀の北端は、現在の水路と直結しており、防御機能だけではなく、灌漑用水路としての機能も考慮に入れる必要がある。
本殿を囲む土塁は、基底部巾約10m、外側高さ約5mで、空堀は、上面巾3〜5m、底面巾約2m、深さ約1mである。
宗教施設には、結界と云われる施設が設けられるが、当遺構は複数に区画されており結界ではないように思われる。


道 案 内
・・・・北脇城・・・
国道1号が新道と旧道に分岐する名坂交差点から国道1号を西に1.5km程走ると里北脇交差点に至る。その先490m程の十字路で右折し、50m程入ったT字路で左折する。北西に100m程進むと建物がなくなり東120m程の所に鉄塔が見える。鉄塔の北50m程の丘陵裾に竹林に覆われた北脇城がある。

・・・・柏木神社遺構・・・・
国道1号が新道と旧道に分岐する名坂交差点から国道1号を西に190m程行った西名坂交差点で左折する。左折して南西方向に220m程行った最初の5差路交差点で右折し、西方向に柏木公園の南側沿いを280m程走ると右手に柏木神社の鳥居前に至る。

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北脇城の南西方向からの遠景 柏木神社本殿を取り巻く土塁
北脇城の西側空堀 柏木神社本殿北側の堀
北脇城の西側土塁内 柏木神社北東郭の堀