No25207−12 木浜城 (このはまじょう)       

城跡の真正寺 南側の堀跡

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 守山市木浜町
築城年 :
形  式 : 平城
遺  構 : 堀跡、
訪城日 : 平成25年9月8日

歴   史
木浜城は、進藤山城守の居城と伝えられている。
進藤氏は、野洲郡の木浜城と小浜城を有した在地の豪族で、進藤長久−貞治−賢盛の三代が六角高頼−定頼−義賢(承禎)三代の重臣を勤め、代々山城守を名乗った。進藤氏三代のなかでも、特に貞治と六角定頼のつながりは顕著で、定頼の祐筆として内治諸般にわたる命令書である「六角氏奉行人奉書」を発出し、また外交では、大永7年(1527)主君定頼が12代将軍に足利義治を擁立した時、これを桑実寺に迎え、上洛に供奉、天文6年(1537)定頼の娘の細川晴元への婚姻に尽力、同年江北の浅井氏攻略、天文8年(1539)定頼に代って細川氏と三好氏の和議を調停、天文13年(1544)将軍義晴と細川氏との和議に同行、天文15年(1546)定頼が管領代として13代将軍義輝を日吉大社で元服させるに際し宮司樹下邸の修繕奉行など活躍をしている。
しかし、永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻により六角承禎・義治父子が甲賀へ落ちると、進藤氏は信長の軍門に入り、元亀4年(1573)の朝倉征討や天正4年(1576)の石山本願寺攻めに加わっている。
なお、木浜城は永禄8年(1565)に焼失、元亀3年(1572)には大原賢永(六角義賢の子で義賢の叔父大原高保の養子である。)の家臣が木浜城を焼き払おうとして失敗し、野洲川原で火刑に処されたと伝わる。

構造と感想
木浜は、古来より琵琶湖水運の要津として栄えたところで、京極道誉の木浜役所が置かれたところであり、軍事的な要衝でもあった。
木浜城の位置は定かでないが、真正寺一帯にあったと云われており、概ね45m×80mの方形区画が想定される。
また、室町期には東方250m程のところに大槻氏城があり、同族でもないのにどうして同じ集落に在地土豪が二者もいたのか関心を持たずには居られないが、不明なところが多い。

道 案 内
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号を北東方向に1.5km程で辻交差点に至り左折する。県道11号線(琵琶湖大橋取付道路)に入り北西方向に道なりに9.0km程の左手にローソンと歯科医院のある所で路地へ左折する。左折後約140m先で右折し田地の中を310m程西進した十字路で右折、右折後の65m先の橋の手前を左折する。水路沿いを220m程走った右手が城跡とされる。

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