No25205−07 大森陣屋 (おおもりじんや)       

陣屋碑 発掘調査地

城郭の概要                  
別  名 : 最上陣屋
所在地 : 八日市市大森町
築城年 : 明暦元年(1655)
形  式 : 陣屋
遺  構 : 移築門
訪城日 : 平成22年10月23日

歴   史

戦国大名であった最上義光は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐を機に秀吉に臣従し、領土を安堵され24万石を領した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに伴う慶長出羽合戦の恩賞として加増され、出羽国57万石の大大名となった。
しかし、最上義光の死後、元和8年(1622)に家督争いがもとで、所領を没収され、近江国および三河国にそれぞれ5千石の知行を許された孫の最上義俊が、近江大森藩一万石を立藩した。
その後、寛永8年(1631)最上義智が継承する際、幼少を理由に5千石を削られ、近江領5千石のみを領する旗本となるが、寛永13年(1636)交代寄合の格式を許され、明暦元年(1655)には初めて領地に赴任する許可を得え、大森村に陣屋を構え、明治維新まで続いた。


構造と感想
玉緒小学校前の大森町交差点を南に入ったところに石碑が建てられている。
発掘調査によって大森陣屋の地には、室町時代後期には布施氏の館が存し、戦乱が激しくなる時期に至って詰城として大森城を築き、平地の館も存続させたと推測されている。室町時代末期、最上氏がこの地を領して、平地の館は明け渡され、堀も埋められた。
大森陣屋が築かれたのは、江戸時代に当地へ最上氏が移封された前後と思われている。
なお、大森陣屋は、近代に入って取り崩され遺構は何もの残っていないが、蒲生町石塔寺に表門が、大森町長福寺に玄関が移築されと伝えられている。

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面へ2.4km程行き国道307号との交差点(御園)で右折する。国道307号を南に1.2km程進み、瓜生津町交差点で右折し、県道170号線に入る。西に2.2km程行った大森町交差点で左折し、県道46号線に入り南30m程の左手に城址碑がある。陣屋跡は、小学校や県道になっている。

TOPへ 戻る