No25204-17 金剛寺城 (こんごうじじょう)       

金剛寺城跡字古城) 金田館・金剛寺跡(金田小学校)

城郭の概要                  
別  名 : 金田館
所在地 : 近江八幡市金剛寺町
築城年 : 鎌倉時代末期
形  式 : 平城(館城)
遺  構 :
訪城日 : 平成25年5月26日

歴   史
滋賀県教育委員会の発掘調査報告書から
六角氏の祖泰綱の子である頼綱が晩年に居館を金田に構え「金田殿」と呼ばれたが、その孫の氏頼が同じ金田に金剛寺を創建してから、寺名が地名になり居館も「金剛寺城」と呼ばれるようになったようである。
応仁の乱の際、近江では六角氏と京極氏が争い、文明元年(1469)の合戦で金剛寺が焼失し、同18年(1486)に再興されたが、その後も長享元年(1487)に足利義尚が六角高頼征伐の軍を起こし、幕府軍が金剛寺城を攻めるなど度々戦乱に巻き込まれた。また、明応元年(1492)の第二次六角征討では将軍義材の陣所となり、退陣に際しては六角虎千代の守護所とされるなど、金剛寺城は中世の江南における重要な城郭であったと推測されている。
なお、織田信長が近江に侵攻し六角氏が没落すると観音寺城と共に廃城になったようである。

  

構造と感想

この付近では、圃場整備や学校整備に伴う発掘調査が行われており、室町時代の堀跡などが検出され100m×200mの近江最大規模の平城遺構が確認されている。
発掘調査から現在の金田小学校の北西側約100m先の小字「古城」が金剛寺城(内城)とされ、その南東側約100mも城郭(外城)とされている。さらに、その南東側は小字「寺内」で金田館・金剛寺の跡と推定されている。
金田館に隣接して若宮井があり、古くから近隣村落の重要な用水源となっており、館や城郭との関連が推測される。
なお、金剛寺町交差点から南東へ少し行った点滅信号のある交差点の左手に説明板がある。


道 案 内
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折し国道8号線に入る。国道8号を4.8km程北東に進むと近江鉄道に架かる袴線橋を越えると直ぐに友定交差点である。その交差点を左折して県道26号線に入り、北西に道なりに1.8km程行った歩道橋の架かる金剛寺町交差点の右側の金田小学校および西方が城跡とされる。

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