No25203-11 小堀氏舘 (こぼりしやかた       

ばんば堀

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 長浜市小堀町
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(居舘)
遺  構 : 堀          
訪城日 : 平成22年2月13日

歴   史
小堀氏の屋敷跡である。同氏は、山門領平方荘上郷内の小堀村に居住した土豪で、室町期から近くの総持寺の土地の寄進主・売主として戦国初期まで登場する。
戦国期は浅井氏に仕え、のちに浅井氏の滅亡を待たず秀吉の旗下に入ったとされる。政一(小堀遠州)の父・新介正次は、秀吉の命により弟秀長の家臣となり、天正10年(1582)の本能寺の変後、秀長が播磨姫路城に封ぜられ、小堀新介正次もこれに同行し、家老として領地の一つである但馬出石城を預かった。
小堀氏は、秀長に従い天正10年頃までに小堀村を離れ中国地方に移住し、天正13年(1585)には大和郡山へと移っている。
慶長5年(1600)上杉征伐に従軍し、徳川家康の麾下に列して、関ヶ原の戦いでは東軍として戦功を上げ、備中松山城を賜り、備中総代官として松山に赴いた。
慶長9年(1604)に正次が死去し、その遺領1万3千石を政一が受け継いだ。政一は茶人として、また作庭家として、さらに築城家として有名な小堀遠州で、名古屋城や駿府城の天主閣造営などに腕を振るっている。
なお、政一が小堀氏発祥に近い近江国東浅井郡小室に移されたのは元和5年(1619)で、『寛政重修諸家譜』には「五年頼宣卿の封地を紀伊国にうつさるるにより、仰をうけたまはりて彼地にいたり、国務をはかる。この年備中国の旧地を近江国浅井郡のうちにうつさる」とある。

構造と感想
小堀氏の屋敷跡である。慶長7年(1602)の検地の際に作成された絵図で移住直後の小堀氏舘の状況を知ることができる。
所在地は、小堀町小字東方の一部で、絵図には「小堀新助殿屋敷」と記され、絵図中の屋敷付近は、縦横に道と水路がめぐっており、何処までが屋敷であるのか判断出来ない。また、同村に残る検地帳では、6畝7歩を「新助殿やしき」として登録しているが、あまりに小さ過ぎる。慶長絵図には、南に「馬かけ場々」、「下司村堀」があり、屋敷との関連が指摘されている。
後者は細長い池で現在も水をたたえており、地元では「ばんば堀」と呼ばれている。この堀が屋敷をめぐるものであれば、屋敷地はもう少し東へ広がるとされる。
現在では、碑があるのみで、残る遺構らしきものは「ばんば堀」程度で他には何もない。

道 案 内
県道37号線の長浜IC交差点から西に550m程行った山科町交差点で左折する。県道510号線に入り南に1km程進んだ交差点(総持寺北西角)で右折する。西に100m程行って十字路で左折する。南に70m程行った左手側が屋敷跡で、少し手前の小堀町公会堂に駐車できる。

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