No25203-7 石田氏舘 (いしだしやかた       

堀端・治部池(堀の一部) 石田三成銅像

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 長浜市石田町
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(居館)
遺  構 : 堀                  
訪城日 : 平成22年2月13日 石田一族の供養塔

歴   史
在地土豪の石田氏の居館跡である。石田氏の出自については明らかではないが、永応26年(1419)からその居住が確認されている。戦国初期には、山室保の下司・公文を勤めていた。
山室保は、館付近から横山丘陵に向かって食い込む谷にあった青蓮院門跡領荘園である。
石田氏は、京極氏に属していたと云われ、のち浅井氏に仕えたと考えられている。豊臣政権の中枢で活躍した正継・三成父子を輩出している。
三成は、永禄3年(1560)にこの地で生まれ、幼時、大原観音寺に預けられ、そこで秀吉の目にとまり仕官のきっかけを得たと云われている。はじめ三也といったが、のち三成とし、秀吉に従って各地に戦功をあげたが、軍事面よりもむしろ文官としての面に能吏ぶりを発揮し、九州征伐の兵站奉行、朝鮮出兵の舟奉行、さらに太閣検地などでその手腕を発揮し、高く評価された。秀吉の五奉行の一人として秀吉の内政面の実質的な担当者であった。
文禄4年(1595)佐和山城主となり、近江国内の浅井・伊香・坂田などで18万石、その他同国の秀吉直轄領7万石の代官となり、同時に父正継および兄正澄にも所領が与えられた。

構造と感想
石田氏の居館は、1町4反ほどあったとされ、堀の一部と伝えられる南端の堀端・治部池から北へ現在のバス停付近までが屋敷地であったようである。
この地域の小字名は「治部」と称し、三成の官途治部少輔からきたもので、以前は大原観音寺の御油田がなまった「ごいで」と呼ばれていた。隣接地には、「的場」、「御畑」、「番場」、「堀端」等の小字名が残り、舘との関連が指摘されている。
石田一族供養塔は、昭和16年に八幡神社の東から破壊された天文・永禄の年紀がある多数の五輪塔が発見され、それらを地元が改装、祀られたもので、三成への熱い思いがあふれている。

道 案 内
県道37号線の長浜IC交差点から東に2.7km程行った東上坂町交差点を右折し、県道243号線に入る。南に道なりに1.9km程進み石田バス停のある十字路に出る。十字路を直進し100m程南に行き右折、西に70mの所が石田舘跡(石田三成の生誕地・石田会館)である。

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