No25202-11 山崎山城 (やまざきやまじょう)       

南西部の石垣 東郭

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 彦根市稲里町、賀田山町、清崎町
築城年 : 天正年間前半(1573~82頃)
形  式 : 山城(標高148.8m)
遺  構 : 石垣、堀切、土橋、竪堀、穴蔵または桝形
訪城日 : 平成22年5月9日   

歴   史
山崎山城は、従来、在地土豪の山崎氏の居城と伝えられてきたが、平成4年度から6年度にかけての発掘調査で安土城の石垣と類似した石垣が検出されたことから、天正年間前半(1573-82頃)に織田信長の命により山崎源太左衛門賢家が築城したと考えられている。
山崎氏は、佐々木氏の庶流と伝わり、代々佐々木六角氏の被官として当地に居住していたとされ、竹生島奉加帳にも名が見え、また、天文7年(1538)の六角氏の坂田郡侵攻にも従軍している。16代賢家の代に観音寺騒動(永禄6年(1563)の六角氏内紛)が起き、六角氏を離れて浅井方に付いたが、やがて上洛をめざし近江に侵攻してきた織田信長の軍門に下っている。
天正10年(1582)4月21日には、甲州攻めを終え岐阜から安土へ凱旋する信長を堅家が山崎に茶屋を設けてもてなしたと「信長公記」に記されている。同年6月には、信長が本能寺で倒れ、その後は豊臣秀吉に仕え、摂津国三田に23,900石で移封されている。これにより山崎山城は廃城となったものと推測されている。

構造と感想
城跡は、安土城と佐和山城の中間に位置し、織田信長が京への主要道として整備した下街道(後の朝鮮人街道)を南下方の真正面に見下ろす標高148.8mの独立丘である山崎山山頂に立地している。
南北を急な斜面に挟まれ、東は宇曽川に向かって急激に落ち込み、西側のみが尾根続きとなっている。その尾根の中央に上幅5mの堀切を設け、東郭(東西90m、南北20m程の範囲)と西郭を区分している。西郭の西端にも堀切を設け城域を断ち切っている。しかし、西郭は、上水道の配水タンクが設置され消失している。
平成4年度から6年度にかけて東郭の発掘調査が行われ、小規模な山城でありながら石垣で構築された「石の城」であることが明かとなっている。石垣は、「城破り」で大きく崩されていたが、山頂部の尾根を取り巻くように東・南・西側の斜面に2~3段残されていた。
石垣は、粗割した自然石を野面積みと呼ばれる技法で積んだもので、石材を横長に据え、裏面には多量の栗石が詰められている。本来は2.5m程の高さがあったと考えられており、明瞭な算木積みも見られ、一部では横矢掛かり状に屈曲するなど、安土城の石垣との類似性が指摘されている。
郭内は、堀切東側が最も高く、そこから東に向かって順次低くなる。東郭の西部には、石垣を伴った櫓台や穴蔵または枡形とされる空間が検出されている。
現状は、発掘調査の後に公園整備が行われ、石垣は殆ど埋められ「石の城」を堪能できる状態ではなく残念である。

道 案 内    
堀切東側の櫓台
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を西に750m程行った外町交差点で左折する。国道8号に入り7.2km程南に進み安食西交差点で右折し、県道205号線に入る。県道205号線を西に2km程行った賀田山町交差点を直進して、260m程先の宇曽川を渡りきって直ぐを右折する。堤防道(歩行者優先道路になっている。)を220m程行ったY字路を左斜めに入り、100m程先の左手に駐車場が整備されている。説明板奧の遊歩道を20分程登ると城跡に至る。
            

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