No25201−17 雄琴城 (おごとじょう)       

前方が城跡(右手は福領寺) 堀切

城郭の概要                  
別  名 : 和田氏館、和田城
所在地 : 大津市雄琴二丁目・三丁目
築城年 : 天文7年(1538)
形  式 : 丘城
遺  構 ::土塁、堀切
訪城日 : 平成24年3月17日

歴   史
雄琴城は、和田源内左衛門秀純の居城である。
秀純は、「江西和田家記」によると永禄9年(1566)に六角義秀から滋賀郡の旗頭に任命され、雄琴城を賜ったとされるが、「雄琴村誌」では、天文7年(1538)小塚山の砦を雄琴の丘上に移したとされている。そして、元亀元年(1570)浅井・朝倉連合軍が湖西を南下して織田信長と対峙したとき、浅井方の軍勢が駐屯したとされ、同年11月26日の信長方の坂井政尚が籠る堅田城を浅井・朝倉軍が攻めた時、秀純は浅井・朝倉方として従軍している。
しかし、翌元亀2年(1571)9月の比叡山焼打ち前には明智光秀の調略に応じ、その配下となった。この関係か天正10年(1582)6月の本能寺の変で光秀が落命すると雄琴城も落城したと云われる。もっとも秀純は、慶長8年(1603)まで生きながらえ雄琴の地で没したとされる。
なお、和田氏は清和源氏である源満政の次男系で、甲賀郡和田谷に住し、和田氏を名乗った一族のようである。

構造と感想 土塁
雄琴城は、琵琶湖の西方500mの福領寺南西の丘上に位置し、眼下に北国海道や湖上を見通せ、優れた立地にあった。
しかし、延宝4年(1676)5月に大雨による山崩れで、その大半が埋もれてしまったと伝わっている。
現在、城薮と呼ばれる竹薮内にL字形の土塁を伴う曲輪と、その背後の堀切を挟んで小曲輪が残る竹薮から和田氏の子孫宅までが城域中心部のようである。
なお、西方奥の竹薮中に秀純の墓とされる高さ1mの五輪塔があるとのことである。

道 案 内
湖西道路仰木・雄琴ICを下りて県道315号線に入り、東に790m程進み左カーブ手前の信号交差点を右折する。南に人家中を240m程走り、T字路を右折し西70m先の福領寺前で左に曲がり、70m程先の左手竹藪が城跡である。

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