No25201−04 大石城 (おおいしじょう)       

南東隅の虎口 東端の堀切

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大津市大石中7丁目、大石龍門2丁目
築城年 :
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、堀、堀切
訪城日 : 平成23年1月29日

歴   史 西土塁上の城址碑
大石城は、嫡流が絶えたのち本家となった中家の居館跡であろう。
大石氏は、平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われ、もと小山氏と云ったが栗太郡大石庄の下司職となり、大石氏を称した。応仁の乱(1467〜77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたが、遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。天文、永禄の頃(1532〜69)一族は数家の分家を出し繁栄し、大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)、西家(淀村)、新家(竜門村)の三家が存続し、中家が本家となったようである。
ところで、「大石小山系譜」に大石家新祖は、在地の大石弾正衛門朝良とあるようだが、どこの家に属していたか不明とされる。朝良には二子がいて兄の大石平左衛門良定は朝鮮出兵に従軍し功をあげたのち大石村に帰住。弟の大石久右衛門良信は八幡山城城主豊臣秀次に仕え、次男大石内蔵助良勝は慶長9年(1604)下野国浅野采女正長重に出仕し小姓役をつとめ、そして元和元年(1615)の大坂の陣で活躍したのち、家老職につき1500石の封禄を得た。良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守ったと云われている。
なお、良勝の曾孫が赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄である。

構造と感想
大石城は舌状尾根の先端部に築かれ、細い道を挟み両側一帯が城域で群郭式の構造であったと推測される。
主郭は、東西52m×南北35mの方形で周囲に土塁を、東背後に見張り台を兼ねた巨大な土塁と堀切を配し、西前面に一段低い副郭(東西22m×南北24m)を備えている。虎口は平虎口で西と南東隅に開いている。北側は断崖となっているが、南側が茶畑で高低差がほとんどなく土塁と空堀で画す程度で、防御が弱く思われる。
また、細い道の西側にも土塁と堀の残片が残されているが、縄張りを想定することは難しい状況である。

道 案 内
名神瀬田西ICまたは京滋バイパス瀬田東ICで高速道路を下りて西方向に行き瀬田川沿いの県道29号線(夕照の道)に出る。瀬田川沿いを南の下流方向に走り、京滋バイパスガード下から道なりに2.1km程行った黒津二丁目交差点を右折する。少し先の瀬田川を渡り直ぐの南郷洗堰交差点で左折し国道422号に入る。国道422号を南方向に3.3km程行った鹿跳橋西詰交差点で右折し、瀬田川を渡り直ぐの大石東六丁目交差点を右折する。県道783号線に入り、南に道なりに770m程行った大石中町南交差点で左折する。東に60mで右折し団地内に入り、道なりに100m進み道路が狭くなる所で駐車し、細い道を30m入り左手奥50m程の所が城跡である。茶畑の北隣りに位置する。

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