No25201−02 大石東館 (おおいしひがしやかた)       

大石久右衛門良信邸址の碑 館跡削平地

城郭の概要                  
大石家の墓
別  名 : 大石久右衛門良信館
所在地 : 大津市大石東一丁目
築城年 :
形  式 : 居館
遺  構 : 削平地、井戸、石積み、
訪城日 : 平成22年8月8日      

歴   史
大石氏は、平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われ、もと小山氏と云ったが栗太郡大石庄の下司職となり、大石氏を称した。応仁の乱(1467〜77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたが、遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。天文、永禄の頃(1532〜69)一族は数家の分家を出し繁栄し、大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)、西家(淀村)、新家(竜門村)の三家が存続したようである。ところで、「大石小山系譜」に大石家新祖は、在地の大石弾正衛門朝良とあるようだが、どこの家に属していたか不明とされる。朝良には二子がいて兄の大石平左衛門良定は朝鮮出兵に従軍し功をあげたのち大石村に帰住。弟の大石久右衛門良信は八幡山城城主豊臣秀次に仕え、次男大石内蔵助良勝は慶長9年(1604)下野国浅野采女正長重に出仕し小姓役をつとめ、そして元和元年(1615)の大坂の陣で活躍したのち、家老職につき1500石の封禄を得た。良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守ったと云われている。
なお、良勝の曾孫が赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄である。

構造と感想
浄土寺の墓地を抜けて石段を上がると大石氏の館跡を示す「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑が建っている。さらに石段を登り切ると大石家祖先の墓が4基並んでいる。この右手奥上方に大石久右衛門良信邸址の石碑が建つ広い削平地がある。この削平地の一段下には帯郭が設けられている。なお、右手背後の山林の中には井戸跡も確認できる。
なお、浄土寺は大石氏の菩提寺で、大石家先祖の墓や本堂には大石家持念仏と伝わる千手観音坐像や良信の室をはじめ赤穂四十七士の位牌が安置されている。

道 案 内
名神瀬田西ICまたは京滋バイパス瀬田東ICで高速道路を下りて西方向に行き瀬田川沿いの県道29号線(夕照の道)に出る。瀬田川沿いを南の下流方向に走り、京滋バイパスガード下から道なりに2.1km程行った黒津二丁目交差点を右折する。少し先の瀬田川を渡り直ぐの南郷洗堰交差点で左折し国道422号に入る。国道422号を南方向に3.3km程行った鹿跳橋西詰交差点で右折し、東に300m程進むと左手に寺院が見える。それが浄土寺で館跡である。

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