千種城  No24341−02 (ちぐさじょう)       

主郭南面の土塁 U郭西側の土塁と虎口

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 三重郡菰野町千種字城山8555他
築城年 : 弘和元年(永徳元年(1381))
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、横堀、堀切、 土塁、空堀、土橋、
訪城日 : 平成25年2月23日

歴   史
千種城は、後醍醐天皇に仕えた南北朝期の公家である千種忠顕の子顕経が築いたと云われている。
建武新政権に反旗を翻した足利尊氏軍が京都に入ると、後醍醐天皇は比叡山に逃れたが、延元元年(建武3年(1336))足利直義の軍勢が比叡山の御座所に迫り、忠顕はこれを防ぎ坂本の雲母坂で討死を遂げた。
顕経は、父忠顕の志を継いで南朝に仕え、正平7年(文和元年(1352))北畠親房の指揮する南朝軍とともに足利義詮と戦い、正平24年(応安2年(1369))足利義満が土岐頼康に命じて北伊勢を攻めさせた際、伊勢国司・北畠顕康が三重郡に砦を築き備えを固めとき、顕経は禅林寺城を築き、公家方諸将の総大将として三重郡を統轄した。その後、弘和元年(永徳元年(1381))に鈴鹿山脈の支脈先端の小丘に千種城を築いて移ったとされる。
戦国時代には、北勢48家の棟梁として三重郡内二十四郷を領し、1千の兵を有する勢力があったが、弘治元年(1555)近江の佐々木義賢に攻められ、城主常陸助忠治は和議を結び、佐々木氏の重臣後藤但馬守の弟三郎左衛門忠基を養子に迎えた。以後、近江軍の伊勢侵入の拠点となった。
ところが忠治に実子又三郎が生まれ、これに跡を継がせようとしたが、忠治と又三郎は忠基によって千種城を追放されてしまった。
永禄11年(1568)織田信長が滝川一益をして北伊勢を攻めたとき、北勢の諸家はその軍門に降り、又三郎もこれに従った。しかし、一益は佐々木氏への同心を理由に又三郎を自刃させてしまった。
信長亡き後の天正11年(1583)北伊勢が北畠(織田)信雄の支配下に置かれた際、忠治は千種城に戻ることができ、津城の冨田信濃守知信の甥を養子とし、顕理と名乗らせた。顕理は、信雄、秀吉、そして秀頼に仕え、元和元年(1615)大阪夏の陣において戦死し、千種家は滅び、千種城は廃城となった。

構造と感想
千種城は、鈴鹿山脈を通り近江と伊勢を結ぶ峠道である「千種街道」と「八風街道」の伊勢側玄関口に位置し、鈴鹿山脈から東に伸びる支脈先端の標高110mの小丘に築かれている。
城の周囲は、西側の尾根続きを巾約20m、深さ約9mの堀切で遮断し、他の三方は20m前後の急斜面に囲まれた要害地形である。
構造は、西側に東西約50m、南北約50mの主郭を置き、その西側と南側に高さ2m前後の土塁が巡り、東側には巾約7m、深さ約2mの空堀が掘られ、北端が東に折れてL字形を呈している。その外側には天端巾約5m、高さ2m程の土塁が並走し、両端が少し東に伸びている。土塁の東方は、東西約30m、南北約30mの平坦地で、北西隅部が内桝形状に一段下がっり、スロープが北東に降っている。その先端は削り取られたように崖になり、崖下には道路が通っているが、空堀を掘り下げ通されたものと思われる。道路東側が独立小丘で、その頂部に平坦地かあり、北面から西面に土塁が残存し、千種城の一部と見られる。
主郭と東方の平坦地の間は、土橋と土塁の開口で連絡しているが、その構造に合点がいかない。なぜ主郭側に土塁を設けていないのか疑問である。土塁上から主郭が丸見えである。これも後世の改変か。
なお、南の向城、東の金ヶ原城は、千種城の支城と云われている。

道 案 内
名神高速道関ヶ原インターを下りて国道365号を南方向に入る。南進して三重県に入って5km程で国道306号との交差点に至る。そこを直進し国道306号に入り8.6km程南進した別名交差点で右折する。引き続き国道306号を走り12.2km程行った奥郷南交差点を右折し、県道626号線に入る。県道626号を道なりに2.6km程行った十字路で右折し、県道762号線に入る。西に3300m程行った二本目の路地へ左折し、その先20m程で右折する。西に120m程で右手に千種城の説明板が建てられている。そこが城跡である。北に抜ける道路の東側にV郭(出丸)がある。

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主郭・U郭間の空堀と土橋         主郭・U郭間の土橋

  U郭西側の土塁と虎口         主郭西側の堀切  

 
主郭の東方向              城址碑