金井城  No24322−01 (かないじょう)       

郭内と北東側土塁 北西側の虎口と土橋

城郭の概要                  
別  名 : 北金井城
所在地 : いなべ市員弁町北金井字亀谷1209〜1226
築城年 : 天文年間(1532〜55)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、空堀、土橋、虎口、
訪城日 : 平成25年2月23日

歴   史
金井城は、天文年中(1532〜55)に種村大蔵大夫高盛によって築かれたとされる。
大永2年(1522)美濃国土岐大膳大夫道誉が北伊勢に侵攻し、金井城に攻め寄せたが、北勢諸家が連合してこれを撃退している。永禄11年(1568)織田信長が侵攻した時には、抗戦したがすぐに降伏し、以後は信長の配下となった。
高盛は元亀3年(1572)に没し、四男弾正左衛門秀政が跡を継ぎ、さらに長男千代次秀信がその跡を継いだ。しかし、天正4年(1576)秀信は滝川一益に不信を持たれ伊勢長島城へ出頭を命じられ、出頭すると秀信は切腹をさせられてしまった。このため、一族は城を放棄し離散したと伝えられている。
なお、種村氏は、『近江輿地志略』に「種村大蔵大夫道成、神崎郡種村の産士也。佐々木政頼の三男を種村伊豆守高成と云、其子伊豆守高盛、其子伊豆守高安、其子道成なり」とあり、近江国守護佐々木家の一族で、近江国神崎郡種村郷に居住したことから種村氏を称し、種村城主であった。大蔵大夫高盛は、その伊豆守高盛の子孫とされる。

構造と感想
金井城は、員弁川の河岸丘陵上に築かれており、南北約120m、東西約60mの規模を持ち、田園続きとなる北西側を幅約20m、深さ約8mの大規模な空堀で遮断し、残る三方は深く落ちこんだ自然の渓谷に囲まれている。攻めるに難く、守るに易い地の利を得た要害である。
構造は、単郭で四囲に土塁が廻らされ、その四隅に横矢掛かりの張り出しが設けられている。虎口は、北西側と南西側に平入虎口が開いている。北西虎口は、空堀に土橋が架けられ、両サイドの土塁張り出しから横矢が掛かる造りである。南西虎口はやや東寄りに開き、搦め手であろうが、普段は下方の員弁川の水を利用するためのものでもあったと思われる。
なお、郭内は中央に仕切り土塁が入れられ二郭に区画されいる。南東側が主郭で、北西側が副郭であろう。
遺構は、空堀も土橋も大規模で、四囲の土塁は分厚く天端も広く、良好な残り具合であるが、雑木等の繁茂が著しくやや残念であった。

道 案 内
城址碑
国道365号を南下し、いなべ市から東員町に入る手前の大泉橋南詰交差点で左折する。県道9号線に入り北東に560m程行くとY字路があり、そこを右手に進み県道611号線に入る。県道611号を北東に240m程行き大泉公民館前交差点で左折する。西に430m程行くと右手に西宮稲荷があり、そこから更に400m程行った十字路で右折し上り坂に入る。110m程先のT字路で右折し、80m先のT字路で再び右折する。40m先のT字路で今度は左折し、その先道なりに130m程行くと突き当りで城跡駐車場がある。南東側が城跡である。
なお、西宮稲荷から50m程先の左手に山林に入る橋があり、徒歩でそこに入り直ぐに左側へ直登すると主郭南隅の土塁に出る。

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北西側の土橋と空堀        北西側の空堀