茂松城  No23604−01 (しげまつじょう)       

主郭内 主郭背後の土塁

城郭の概要                  
別  名 : 高坂城
所在地 : 豊川市(御津町)御津町広石高坂
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀、堀切、虎口、井戸
訪城日 : 平成30年11月24日

歴   史
昭和9年発刊の鹿城那賀山坦編『東三河之古城』に「往昔蒲冠者(源頼朝の異母弟)三河守となりて在城すと伝ふ。後足利義満(在職1369〜95)の頃、細川頼有当城を築く、永和(1375〜79)、明徳(1390〜94)の頃は同舎弟頼顕、頼長、次に兵部大夫時氏等あり、又永享(1429〜41)、享徳(1452〜55)の頃は細川讃岐守成之入道道空幕下の士細川治部大夫に命じて在城せしむ。応仁(1467〜69)中外戚酒辺時重当城を守りしも、文明擾乱の際、今川治部大輔義忠に攻められ時重出奔して落城し、後牧主計在城す。」と記されている。
なお、現地説明板では、「のち細川勝久が在城し」と記されているが、勝久は頼有の弟満之の曾孫にあたる人物である。また、上記人物は異なる家系で、一族間で領有が変遷したか。
牧主計(今橋(吉田)城主牧野古白の六男)は永禄3年(1560)桶狭間の役で討死し、その後、菅沼定盈、長沢松平氏が居城し、天正18年(1590)関東移封により廃城となった。

構造と感想
御津町にある県立御津高校のすぐ東に隣接する標高77m、比高50mの尾根先端ピークに築かれた丘城である。
構造は、頂部に主郭を置き、方形で北側半分を「コ字」に土塁が巡り、南側中央に虎口が開き、虎口を出て下ると土塁に囲繞された長方形の虎口受けが付帯している。
東側中央の虎口を出て下ると北側に土塁を伴った方形に近い小段があり、その南下に直径3m、深さも数メートルありそうな井戸跡がある。
北側が尾根続きで堀切で遮断している。現在、堀切は東三河ふるさと公園へ通じるハイキング道となっている。
掘り残しの背後の土塁は2、3mもあり迫力満点、井戸も落ちたら出られない巨大なもので、一見の価値があるので是非ご覧いただきたい。。

道 案 内
東名高速道の豊川インタ−を下りて、国道151号の南方向に入り、6km程行った国道1号との宮下交差点で右折する。国道1号を北西方向に5.4km程行ったY字の国府町薮下交差点で左手方向に進み県道374号線に入る。290m程先の初めての十字路で左折し県道375号線に入る。160m程先で音羽川を渡り、更に330m程行くと五差路交差点に至る。そこで右折して県道372号線に入り510m程進むと右手に御津高校への案内板があり、そのT字路で右折し道なりに御津高校を目指して走る。校門前で右側へ廻りこむ道が有り進むと右手にフェンス端に看板が立っている。そこが登り口で高校の真東の尾根先端に城跡がある。山道は城の横を通っているので、通過しないよう注意。余白に駐車可。

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登り口               南虎口内


虎口受け      背後の堀切


東腰郭の土塁           井戸跡