石橋城  No23582−04 (いしばしじょう)       

土塁 段丘崖

城郭の概要                  
別  名 : 石橋館、弾正屋敷
所在地 : 新城市(作手村)作手清岳字寺屋敷
築城年 : 応永年間(1394年頃)
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁、空堀、
訪城日 : 平成26年11月30日

歴   史
石橋城は、奥平氏の居城である亀山城の南虎口に対応した城館跡であり、奥平二代当主貞久の次男、弾正久勝が最初の城主で、この近辺の地名「石橋」を称し、三代貞昌の家臣となった。
天文4年(1535)貞昌の死去により嫡男貞勝が二十代前半の若さで宗家の当主となった。天文6年(1537)久勝の子弾正繁昌は貞勝の若年に乗じて謀反を企てたが露見し、貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められ、石橋家中四十二名はことごとく討取られた。討取られた四十二名の亡骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれた。現在でも西方土塁の腰に石祠を確認することができる。
後年、石橋一族の死を哀れんだ徳岩明和尚が亀山城主貞勝に願い出て、弾正屋敷跡を貰い受け寺地とし、「石橋山慈昌院」を建立した。

構造と感想
現在、石橋城は慈昌院の境内となっている。一段高い段丘上に築かれた方形居館で、境内の東側から北側にかけて土塁と空堀が残存している。そして、土塁の腰に無縫塔や石祠を祀る一画がある。

道 案 内
新東名高速道の新城インターを下りて国道151号の南方向(新城市役所方面)に入り、5.3km程行った杉山北交差点で右折し国道301号に入る。最初は北上し、その後道なりに16km程行くと右手に道の駅「つくで手作り村」がある。その対面にある寺院(慈昌院)が城跡である。

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                 空堀跡