日近城  No23502−01 (ひじかじょう)       

主郭の北東方向 主郭の土塁

城郭の概要                  
別  名 : 名の内城
所在地 : 岡崎市(旧額田町)桜形町字般興
築城年 : 文明10年(1478)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、竪土塁、竪堀、横堀、堀切、虎口
訪城日 : 平成30年11月25日

歴   史
文明10年(1478)頃に奥平貞昌によって築かれたとされる。貞昌は、作手亀山城を本拠とする作手奥平氏の3代目で、次男貞直を日近に分知し、日近奥平氏の初代とした。
奥平氏は、東三河に勢力を伸ばしてきた今川氏に従っていたが、奥平宗家4代貞勝のとき松平清康(家康の祖父)が東三河に進出し、貞勝は清康の宇利城攻めに従っている。天文4年(1535)清康が尾張守山の陣中で家臣の謀反により横死すると三河は今川氏の領国となり、再び今川氏に属した。
弘治2年(1556)兄の貞勝、田峯城主 菅沼定継と共に織田に寝返り、今川方の秦梨城主粟生将監永信を攻めた。その後、「日近の戦い」となり今川方の東条松平勢に日近城を攻められ籠城戦の末にこれを退けた。しかし、半年後の「雨山の戦い」で本多忠俊らの攻撃に破れ、和睦し再び今川氏に属することになるが、貞直は追放、長男彦九郎は討ち取られた。
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると今川氏から離れて松平元康に属したが、元亀元年(1570)武田家臣の秋山信友による三河侵攻を受けて降伏、日近城主2代目貞友の娘 おふう、奥平宗家5代目貞能の次男 仙千代らが人質として送られた。しかし、元亀4年(1573)信玄が没すると、貞友は作手奥平氏の貞能、貞昌(後の信昌)とともに武田氏と手を切り家康に帰順するが、武田への人質は処刑され、これを悲しんだ貞友は剃髪のうえ、おふうの墓横の瑞屋敷に隠居し、天正17年(1589)に没している。また、日近城は、天正18年(1590)家康の関東移封に伴い廃城になった。
なお、貞昌は、家康の援軍を得て古宮城などの武田勢を駆逐し、この功により長篠城在番となり、天正3年(1575)2月には城主を命ぜられ、5月には武田勝頼の大軍に攻囲されたが城を死守し、設楽原の戦いでの織田・徳川連合軍の大勝に結び付けた。戦後、織田信長より「信」の字を賜り信昌と改名、天正4年(1576)には新城城を築いて移り、家康の長女亀姫を正室に迎え、徳川一門として繁栄していった。

構造と感想
日近城は、作手奥平氏西進の拠点として築城された山城で、名の内集落の東、かおれ渓谷を見下ろす標高270m、比高70mの半独立丘陵の頂部に築かれ、100m四方程の規模を持つ。
山頂に主郭を構え、西尾根に二段の腰郭を連ね、南東尾根にも一郭を配している。主郭は東西二段になっており、それらの東から南側に「く」の字形の大土塁を巡らし、さらに北と南東端を堀切で遮断している。南東尾根筋への防備を厳重にしている。
南東尾根には堀切を隔て「く」の字形の大土塁が南へ伸び、その西裾から主郭の南下方に掛けて「L」字形の腰郭が設けられ、南東端は堀切で遮断している。「L」字形の腰郭中央谷側に虎口と竪土塁が設けられ、竪土塁の西側には小さな段郭が付帯し、段郭の南下方へも竪土塁が落ちている。
主郭南東端の堀切を北東に抜けると土塁に突き当たり、一部が横堀状となる帯郭が左右に伸びる。北は主郭の西へ回り込み竪堀と竪土塁として落とされ、南東は南東端の堀切まで達している。
元々の城域は、主郭から西尾根の二・三郭までの連郭式であったものを、天正期に南東尾根まで拡張したものと考えられている。
主郭周辺の堀切や帯郭、竪堀などの遺構は、残存状態もよく見応えがある。

道 案 内
新東名高速道路の岡崎東インターを下りて国道473号の北方向に入る。国道473号を14km程北上すると乙川に架かる日近橋に至る。橋を渡った交差点で右折し県道35号線に入り、直ぐの左手に「広祥院」があり、北側背後の山が城跡で、さらに50m程進んだ左手に大きな日近城の案内板が出ている。登り口右側の一段上が城見学者用駐車場である。本堂横から墓地を通り北東方向へ尾根筋を登る。

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主郭南東下の堀切             堀切突き当たりの土塁


二郭の西方向           二郭虎口の石垣


南東尾根の大土塁と腰郭      南東尾根の竪土塁と段郭


南東尾根の堀切           おふうの墓