大給城  No23211−04 (おぎゅうじょう)       

主郭北東隅部の石垣(副郭の虎口) 主郭の虎口と石塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 豊田市大内町城下
築城年 : 永正4〜7年(1507〜10)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、石塁、石垣、堀切、竪堀、空堀、櫓台、虎口、
訪城日 : 平成26年9月28日

歴   史
応仁〜文明年間(1467〜86)頃は、土豪の長坂新左衛門の居館であったが、岩津(岡崎市岩津町)に進出した松平宗家第三代の松平信光がこれを攻め落とし、三男親忠(松平宗家第四代)に与えた。後に親忠は岩津に移り、その次男乗元に大給城を譲り、その乗元が大給松平氏を興した。この乗元とその子乗正が永正4〜7年(1507〜10)にかけて大改修を行い城郭として整備したとされる。
以後、乗勝・親乗・真乗・家乗と続く大給松平氏が大給城を居城とした。四代親乗は周辺へ勢力拡大を図り、滝脇松平氏の滝脇城や松平氏発祥の地である松平郷も手中にし、宗家と対立したが、五代真乗は徳川家康に仕え、家康の遠江侵攻や甲斐武田氏との高天神城の戦い、さらに長篠・設楽ヶ原の戦い(天正3年(1575))などに参陣し、戦功を度々挙げている。
この間、天正3年(1575)に滝脇松平氏の乗高によって大給城は攻められ落城するが、再び大給松平家の手に戻っている。また、この頃に武田氏侵攻の脅威に備え、本丸周辺が総石垣に改修されたとされる。
そして、天正18年(1590)六代家乗の時、家康の関東移封に伴い、大給松平氏も上野国那波郡に移ったため、大給城は廃城となった。

構造と感想
松平城山城跡は、豊田市街から東南東に7.3km、松平氏館跡から西に2km、滝川南岸、巴川との合流点近くに聳える標高204mの急峻な山上に築かれ、西方眼下には九久平集落を見下している。九久平集落は、足助街道と新城街道との交差点であり、巴川の水運と陸上輸送の中継地という交通の要衝であった。
城域は東西約220m、南北約280mの規模で、東西に長い山頂と北側の谷筋、南下方の支尾根上に郭を配し、十字の平面形を呈した山城である。
山頂に主郭を置き、中央付近の南北方向に石塁を築き、二つの郭に区画し、西側が主郭で、東側が副郭である。副部の東下方に二の郭を構え、主郭の南下方には城主居館にある方形の郭が配され、また、副郭と二の郭の北側に迫る谷筋には2つの水溜を持つ特異な形態の水ノ手郭が置かれているが、石垣で補強され堤防が二本築かれ、これが谷筋防御の機能も果たしている。見事な構造である。山頂部の南北側山腹には帯郭が付帯し、東西の端部は岩盤を穿ち大規模な堀切を入れ遮断している。加えて城内道は二の郭や副郭からの制圧を受ける複雑なルート設定がなされており、これも見事である。

道 案 内
登り口
豊田市中心部より国道153号から国道301号と進み、松平橋を渡った東詰めの松平橋東交差点で右折する。引き続き国道301号を1.1km程南下した九久平町簗場前交差点を左折する。国道301号をさらに1.7km程道なりに進むと十字路があり、右手に大給城への黒い案内板と石碑が設置されている。その十字路を右折し580m程行った山が登りから下りになる付近の右側に大給城登城口の案内板がある。付近の路肩スペースに駐車できる。
登城口より登り尾根にでると、右手方向に松平乗元の墓で、左手方向に行くと大給城に至る。

TOPへ  戻る

 現地の縄張図
城址碑

西への眺望と物見岩

 
東端の堀切                水ノ手郭

 
二の郭              城主居館