松平城山城  No23211−03 (まつだいらじょうやまじょう)       

東稜線部から主郭北側帯郭への土橋と虎口 西稜線部のTの郭石垣

城郭の概要                  
別  名 : 大田城(だいたしろ)
所在地 : 豊田市大内町城山
築城年 : 室町時代
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、石垣、土橋
訪城日 : 平成26年9月28日

歴   史

松平城山城は、室町中期の武将で主に関東に事跡を残している太田道灌が築いたという伝承があるが、信ぴょう性に欠けると云われている。しかし、その他に築城に関する史料等はないようである。
その後、松平宗家三代信光が改修を行い、八男の光親(能見松平氏の始祖)を城主としたが、永正年間(1504〜21)に光親が能見城(岡崎市元能見町)へ移り、松平城山城は大給松平氏の支城となり、更に大給城とともに松平宗家の支配下に入って以降は、元亀2年(1571)から天正元年(1573)にかけての甲斐・武田氏の三河侵攻や天正12年(1584)の小牧・長久手合戦に際して、大給城とともに改修されたと考えられている。
天正18年(1590)徳川家康が関東に移封されると、松平城山城は大給城とともに廃城となった。


構造と感想

松平城山城跡は、豊田市街から東に8km、松平氏館跡から北西に1km、滝川北岸に聳える標高253.5mの城山山頂に築かれており、東西に長い山頂と山頂の東西端から北に曲がり延びる稜線上に郭を配し、馬蹄形を呈する山城である。
山頂に置かれた主郭は、浅い南北方向の空堀が二本入られ、三つの区画に区分されている。空堀には各一本の土橋が架けられ、空堀の中央区画側には低土塁が付けられている。虎口は北西隅に開き、桝形虎口である。南側と北側に帯郭が、西側に二段と南東隅に一段の腰郭が設けられ、西側の一段目から南に土塁付きの竪堀が落とされている。
東稜線部は先端が二股に分かれY字形をしており、四つの郭が構築されている。主郭部とは堀切とS字堀で二重に遮断され、主郭の帯郭から脇を石積で固めた坂虎口を出て、堀切に架かる土橋を渡って、直ぐ右に折れ二重堀間の土塁を通り、突き当りで左に折れてS字堀端部の土橋を渡り、また左に折れて土塁上を降り右に折れてTの郭に入る。非常に複雑な虎口構造であり目を引く。
Tの郭は北部が一段高く二段築造で、高段の東裾が通路になり、その先は堀切に架かる土橋である。土橋を渡ると東側と北側を空堀が取り巻く先端西側の郭に入る。城道は、右折れし東方向に空堀を渡って、先端東側の郭の北西側裾を通り城外へと下っていく。先端東側の郭とTの郭間も堀切で遮断され、先端東側の郭は中程で空堀により二つの郭に区画され、先端部の郭は石積や土塁で防御を固めている。
西稜線部は主郭部と堀切で遮断され、中程にも大きな堀切があり二つの郭に区画されている。北西端にも二本の堀切が入っている。西稜線部の二つの郭は、主郭に次ぐ広さがある。これら郭の西側裾を城道が登り主郭部との堀切底を通り、主郭の北側帯郭に入る。帯郭に入ると城道が「己」字状に折れて主郭に入るルート設定になっている。これも非常に複雑な虎口構造であり目を引く。
西稜線部の郭には、側面に一部石積が残り、北側の郭の南面、堀切に面して土塁が付いている。
この城は、堀切とS字堀、それらに架かる土橋、脇を石積で固めた虎口、先端を防御する石積など見逃せない遺構が数多くある。


道 案 内
豊田市中心部より国道153号から国道301号と進み、松平橋を渡った東詰めの松平橋東交差点で右折する。引き続き国道301号を1.1km程南下した九久平町簗場前交差点を左折する。国道301号をさらに2km程道なりに進んだ大内バス停近くのT字路で左折し、県道360号線に入る。県道360号線を250m程進んだ 王滝渓谷への道路案内標識 が出ているT字路で左に入る。その先へ道なりに1.2km程行くと右手に「大きな歌石」のあるT字路があり、そこで右折し40m程で王滝渓谷の駐車場である。
この駐車場に「王滝渓谷と周辺案内図」があり、城山城も載っているが、ポンチ絵程度で分かり難い。駐車場から奥へ少し登って行き、左手へ分岐する登山道に進み、山に入っていくと城跡に至る。

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西稜線部の郭間に設けられた土塁(左の写真)と堀切(右の写真)

 
主郭の虎口       主郭の大石
 
 
主郭帯郭の東坂虎口と石積    東稜線部のS字堀(奥が土橋)

 
東稜線部先端の石積          東稜線部先端の横堀