松平氏館  No23211−01 (まつだいらしやかた)       

石垣と水堀 産湯の井戸

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 豊田市松平町赤原13
築城年 : 弘安年間(1278〜88)
形  式 : 居館
遺  構 : 石垣、水堀、井戸、桜馬場、
訪城日 : 平成26年9月28日

歴   史
松平氏館は、後宇多天皇(在位1274〜87)に仕えた公家の在原信盛が弘安年間(1278〜88)の頃に京より松平郷へ下向して築いた居館と伝えられている。
応永元年(1394)頃、時宗の遊行僧・徳阿弥が諸国を流浪中、東国から三河の大浜、そして松平郷に入り、信盛の子信重の末娘の婿として養子となり、松平太郎左衛門親氏と名を改めて、信重の跡を継いだ。この親氏が松平氏の始祖で、親氏から数えて九代目が徳川家康である。徳川氏が新田源氏を称するのは、この徳阿弥が上野国新田郡世良田荘得河郷の出自とされたからである。
親氏は、松平氏館の詰めの城として松平城を築き、これらを拠点に近郷7ヶ村を手中にし、松平氏の勢力拡大のきっかけをつくった。親氏の弟・泰親は、子の信広、信光を従え三河平野部の岩津城を攻略したが、この戦で負傷したとされる信広に松平郷を継がせ、泰親・信光父子は岩津城へ居城を移し、信光が松平宗家の当主に就いた。
この信広を始祖とする家系を松平郷松平家と云い、松平太郎左衛門家とも呼ばれ、松平郷を離れることなく江戸時代には旗本交代寄合に列せられ明治維新まで続いている。
なお、現在に残る石垣や水堀は、9代尚栄によって慶長18年(1613)に築かれたものである。

構造と感想
松平郷は、豊田市街から東に10km、国道301号沿いの山村にあり、東側に標高600m級の炮烙山、六所山が聳え、西に向かってなだらかな丘陵地となっている松平氏発祥の地である。
松平郷は今もひっそりとした山里で、松平氏に関わる遺跡が数多くあり、そのうち「松平氏館跡」「松平城跡」「大給城跡」「高月院」の4ヶ所が初期松平氏の様相がよく残ることから、「松平氏遺跡」として国の史跡指定を受けている。
現在、館跡には元和5年(1619)に勧請された徳川家康を祀る松平東照宮が鎮座し、家康が生まれた時に産湯に使ったと云われる井戸や屋敷地の西側と南側に石垣と水堀をが残る。
また、館跡の東300m程の所には、松平家の菩提寺・高月院があり、初代親氏、二代泰親の墓や四代親忠婦人の墓があり、厳かな雰囲気を湛えている。

道 案 内
豊田市中心部より国道153号から国道301号と進み、松平橋を渡った東詰めの松平橋東交差点で右折する。引き続き国道301号を1.1km程南下した九久平町簗場前交差点を左折する。国道301号をさらに5km程道なりに進むと右手に長福寺があり、その80m先で左折(松平東照宮の標識あり。)し、道なりに500m程行った左手が館跡である。

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