大崎城  No23201−04 (おおさきじょう)       

主郭と三郭間の空堀 主郭への土橋

城郭の概要                  
別  名 : 大崎村古城、大崎陣屋
所在地 : 豊橋市船渡町字城戸中
築城年 :
形  式 : 丘城
遺  構 : 空掘、土橋、土塁、井戸
訪城日 : 平成30年11月23日

歴   史
永正3年(1506)田原城主の戸田憲光は今川氏親と和を結び、共同して牧野古白(成時)の今橋城(後の吉田城)を落とし、次男の金七郎宣成を城主にし守らせた。この戦で古白は討死している。
永正16年(1519)古白の遺児成三・信成兄弟は今川氏と関係を修復し、その援軍を得て今橋城を囲み、城の明渡しを迫った。宣成はやむ無く城を明渡し田原城に戻ったが、牧野氏に対抗するため、最前線となる伊庭藤太の居城であった大崎城に入城し城主となり城の大改修を行なった。
享禄2年(1529)松平清康が吉田城を攻め東三河の主部を支配下に置き、天文元年(1532)には吉田城も落城し、城主 牧野信成は討取られた。これにより周辺の諸豪達も清康の膝下に参じ、田原城主戸田宗光も清康に降った。
天文4年(1535)清康が家臣の裏切りにより守山城で横死すると、再び三河は乱れ、牧野氏の一族と思われる牧野成敏が吉田城主となったが、天文6年(1537)には松平氏の弱体化に乗じて大崎城主 宣成が吉田城を襲い、成敏を追い出し奪還を果たした。
しかし、天文15年(1546)駿河・遠江の平定を終えた今川義元は、天野安芸守に命じ吉田城を攻めさせた。宣成は城を枕に討死して果て、翌 天文16年 戸田氏は駿府へ送らる松平広忠の子竹千代を強奪して尾張の織田信秀へ渡すという事件を起こし、田原城も今川勢に攻められ落城、戸田氏は滅んだ。
宣成の死後、大崎城は放置されたが、慶長6年(1601)に旗本 中島与五郎重好が大崎城の東側隣地に陣屋を構え、九代続いて明治を迎えている。

構造と感想
大崎城は、三河湾に臨む岬状の洪積台地端に築かれている。現在は周囲が埋め立てられ岬状の地形は失われている。
主郭が比高10mと最も高所を占め、西側を除く三方を高さ2m程の土塁と深さ3mの空堀で囲まれている。東側の中央付近に平入り虎口が開き、土橋を架けて対岸と連絡している。虎口の前にも郭があったようだが、完全に消失している。堀を介して主郭北隣に幸稲荷神社の鎮座する郭と民家が建っていた郭が連なって配されている。この二つの郭に堀はなく切岸となっている。幸稲荷神社の鎮座する郭の北西隅に櫓台状の土塁が付帯している。
主郭南側に旗本 中島氏の菩提寺となった龍源院と大崎八幡社が連なっており、その間に「杉山堀」と呼ばれる空堀があるようで、近在の杉山村(現豊橋市杉山町)からの徴発人足によって築かれたことに由来するそうである。また、主郭周囲の空堀は「谷熊堀」と呼ばれ谷熊村(現田原町)からの徴発によるようである。
主郭周囲の土塁や土橋、空堀は、見応えのある遺構で、残存状態も抜群である。しかし、主郭内は竹が密集し立ち入れる状態でないのが残念である。

道 案 内
東名高速の豊川インターを出て国道151号の南方向に入る。国道151号を6km程南下した国道1号との交差点である宮下交差点を左折して国道1号に入る。そのまま道なりに3.5km程行くと豊橋市役所を通り過ぎた西八町交差点に至る。ここで国道1号は左に折れるが、直進し国道259号に入る。2.8km程道なりに行くと左手に愛知大学があり、そこの富本町交差点で右折して県道2号線に入る。県道2号線を道なりに3.7km程行くと梅田川に架かる大崎橋を渡る。橋を渡って530m程行くと右手に船渡郵便局があり、その100m程先で鋭角に右折し細い道に入る。70m程先の小さな十字路で左折し突き当たりまで行くと幸稲荷神社がある。その一帯が城跡である。付近に駐車可。

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主郭東側の土塁         三郭の北西方向


三郭北西隅の土塁            四郭から三郭を望む