畔田城  No23201−03 (くろだじょう)       

主郭の南東方向 主郭への木橋と土壇

城郭の概要                  
別  名 : 赤沢城、畔田屋敷
所在地 : 豊橋市城下町字築地ノ内
築城年 :
形  式 : 平山城
遺  構 : 空堀、土塁、土橋、虎口
訪城日 : 平成30年11月23日

歴   史
畔田城は、近くの東観音寺(豊橋市小松原町)の棟札に寛正2年(1461)付けで畔田遠江守と同弟修理亮の名が見られることから、田原から豊橋南部の梅田川流域に掛けて勢力を誇った豪族 畔田氏の城であろうと考えられている。その後、戸田弾正左衛門宗光がこの地域に進出し、文明7年(1475)に高縄城を築くと、畔田氏はその傘下に入った。今川氏が三河へ進出してからは戸田氏と共に今川氏に従った。
しかし、天文16年(1547)戸田康光・堯光父子は、今川人質の松平竹千代(後の徳川家康)を織田信秀に渡したことで、今川義元の怒りを買い攻め滅ぼされたが、畔田氏はその後も今川に従っている。
永禄7年(1564)徳川家康は吉田城と田原城を攻略して今川勢を三河から駆逐、その際 畔田氏も遠江国平川郷へ落ちたとされる。
なお、家康はこの戦いで戦功のあった康光の甥 戸田忠次に戸田氏の故地である高縄城を与えている。

構造と感想
畔田城は、遠州灘に面した段丘上に築かれている。主郭からは樹木の繁茂で太平洋は見えないが、波の音が聞こえ、太平洋が近いことが分かる。
民家右奥の階段を上がり少し入ると左手(東側)に南北方向の土塁が現れ、その先で右(西)に折れ東西方向の土塁となる。折れの部分に開口があり、桝形虎口の痕跡が残る。更に進むと深い空堀に土橋が架かる。土橋を渡った左手(東側)に小さな馬出郭が構えられている。右手(西側)は一段高い削平地になっている。その先はまた空堀で土橋の上に木橋が架かっている。正面は一段高い土壇で木橋を渡り左手に回り込むように主郭に入る。主郭には小さな祠があるだけで、土塁はない。
外側の西側空堀の先端は竪堀で落ち、東側空堀は東部で内側空堀と繋がっている。その内堀は他の空堀と比べ駄々広く、そこへ馬出からのスロープが下りてきている。太平洋戦争末期に本土決戦の施設として手を加えた可能性が指摘されており、内堀の周囲や土橋を削って広くしたのかもしれない。
外側空堀の北側各所に土塁が断片的に残存しており、土塁で区画された屋敷地が広がっていたようだが、その範囲は特定されていない。
現在、残存する空堀は深さも幅もあり、また、それに架かる土橋も見応えがあるものだ。

道 案 内
東名高速の豊川インターを出て国道151号の南方向に入る。国道151号を6km程南下した国道1号との交差点である宮下交差点を左折して国道1号に入る。そのまま道なりに3.5km程行くと豊橋市役所を通り過ぎた西八町交差点に至る。ここで国道1号は左に折れるが、直進し国道259号に入る。10km程道なりに行くと左手に老津小学校がある。その800m程先の境橋北交差点を鋭角に左折し国道259号の旧道に入る。北に600m程行くと左手に老津公園がありその50m程先の老津町交差点で右折し県道411号線に入る。県道411号線を4.5km程道なりに南下すると国道42号との城下交差点に至る。同交差点で左折し東に90m程行くと左手に大円寺があり、そこで南方向に右折する。240m程先の二つ目の交差点で西方向に右折し、320m程西進した左手の生垣沿いの道が入り口である。釣具屋(既に廃業)の正面左手の道に奥に入り、途中、階段を上がり進むと城跡に至る。

                    
 入り口                建物奥の右前方に階段                             

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主郭の土壇と城内道          主郭西側の切岸


内側空堀からの竪堀          外堀の土橋


    外側の空堀堀             外側空堀からの竪堀



城館部の土塁            桝形虎口