横地城  No22446−01 (よこちじょう)       

東の城・本丸と城址碑  東の城・本丸東側の切岸と堀切

城郭の概要                  
別  名 : 金寿城
所在地 : 菊川市東横地
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、空堀、井戸、
訪城日 : 平成

歴   史

築城年は詳らかでないが、南北朝期に横地氏によって築かれたと云われる。
平安時代の中頃、奥州の豪族安部氏が起こした前九年、後三年の役を鎮圧するため、源頼義が鎮守府将軍として奥州に下向した折、長雨により遠江国府中に滞在したとき、同行した嫡男八幡太郎義家が側に侍した土豪・相良太郎藤原光頼の娘に産ませた庶子が成長して、横地太郎家永と称し、横地氏の始祖になったと伝えられる。
以後、14代に亘ってこの地を支配する国人領主となり、保元の乱や源平の合戦で活躍し、鎌倉幕府の御家人や室町時代では遠江守や将軍の御供衆などを務めている。戦国時代に入ると遠江守護斯波氏に従って、文明8年(1476)今川義忠が遠江に侵攻すると、横地秀国は勝間田修理亮と共にこれに対抗したが、勝間田城が落城して横地城も攻囲され、秀国が討死し、横地城も落城した。
なお、秀国の子である元国は、武田氏を頼り3代に亘り仕え、武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、旗本として明治を迎えている。


構造と感想

横地城は、標高102mの東峰に築かれた東の城(本丸)、谷を隔てて西に200m程の山頂に西の城(二の丸)、その中間に居館跡と云われる中の城の3つで構成されている。
東の城は、山頂に段差の大きい二段築成の主郭を置き、主郭の北側に三段の段郭を付帯させ、最下段から西に延びる尾根に西郭を設けている。山頂等から派生する支尾根には堀切が入れられ、特に西郭から北に延びる尾根筋には三本の堀切を入れ遮断している。
西の城には、横地神社が鎮座し、横堀や土塁、井戸跡が残り、中の城に約20m四方の土塁囲いの郭と木戸跡が残っている。
城跡は県立自然公園内の横地城址として良く手入れされており、快適に散策できる城跡である。


道 案 内
東名高速道路の菊川インターを降りて右折し、県道79号線に入る。南に220m程先の菊川IC南交差点を左折し県道245号線に入り、道なりに3.6km程行くと左手に奥横地公民館があり、160m程先のY字路(案内板有り)を左手に入る。道なりに480m程行きT字路(案内板有り)で左折、その先へ道なりに400m程でT字路(案内板有り)に出る。T字路を右折して道なりに300m程行くと横地神社前に至り、ここが西の城である。そこから更に道なりに230m程行くと東の城である。この間の途中で中の城を通る。

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中の城・南面の土塁       中の城・城戸   

 
西の城・千畳敷         西の城・横堀 

 
                             西の城・井戸