勝間田城  No22423−01 (かつまたじょう)       

二の郭 主郭の土塁と城址碑

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 牧之原市勝田2160−1
築城年 : 応永年間(1394〜1427)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口、建物跡
訪城日 : 平成23年2月26日

歴   史
勝間田城は、応永年間(1394〜1428)に勝間田定長によって築かれたと推測されている。
勝間田氏は、平安末期から室町中期まで約340年間に亘り、東遠地方に勢力を有した豪族で、横地氏初代の太郎家永の次男十郎権守を初代とする。勝間田氏が史料に初めて登場するのは「保元物語」で、保元の乱(保元元年(1156))における武功が記されている。また、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」には、平三郎成長が幕府設立期に活躍し、幕府の有力御家人に名を連ねたとある。
しかし、建久6年(1195)闘乱刃傷事件を起こし領地没収となり衰退するが、建保4年(1216)源実朝が派遣した宋使節団に勝田兵庫頭が参加しており、建長2年(1250)京の間院殿造営のための木材等の供出分担目録に勝田兵庫助の名が見え、さらに、鎌倉時代末期には長清が「夫木和歌集」を編纂し、秀歌を残しており、この頃までに勝間田氏は復権を果たしたと思われる。
元弘の乱(元弘元年(1331))の際には、一族が南朝方と北朝方に分かれて参戦していたことが史料に記されている。
正平3年(1348)足利尊氏が執り行った諏訪神社の笠懸の神事に勝田能登守佐長、勝田二郎丞長直らが射手として参加している。足利義満の代になると勝間田氏は次第に中央に進出し幕府奉公衆となり、文中元年(1372)勝田三河守太郎や勝田修理亮が将軍の近習となり活躍している。
勝間田城が築かれたのは、この頃と考えられている。
その後、大内義弘を討伐した応永の乱(応永6年(1399))では将軍直属軍として今川泰範の軍に加わった勝間田遠江守が丹波国追分の合戦で討死し、また、享永10年(1439)六代将軍足利義教の命による関東征伐(永享の乱)で活躍した勝田弾正が箱根で討ち死にしている。
応仁・文明の乱(応仁元年(1467)〜文明9年(1477))が始まると、東軍方に付いた隣国・駿河国の今川義忠の遠江侵攻に対し、勝間田氏は横地氏と共に西軍方に加わり、両者が共闘し対抗するが、義忠軍の猛攻の前に文明8年(1476)遂に勝間田城は落城、凱旋途中の義忠を勝間田氏の残党が襲撃し討ち取るも大局は変えられず、一族は四散し、以後、勝間田氏一族は史上から姿を消した。

構造と感想

勝間田城は、牧之原台地の北東部から延びる尾根上標高131mのピークに築かれている。
最高所に城址碑の建つ本郭を置き、北東に下りながら二段の郭、二の郭、三の郭と並べ、さらに空堀と堀切を隔てて出郭を配している。二の郭と三の郭は土塁で囲繞され、面積も大きく、土塁には虎口らしき開口部がある。また、出郭も広い郭であり、これら三つの郭は、この城の他の部分とは造りが異なるように思われる。
主郭から南西に延びる尾根には堀切で区画した二つの小郭があり、その外側に二本の堀切を入れている。東に延びる尾根には櫓台状の東の郭を置き、その外側は鋸刃状の連続堀切で遮断している。
中世山城と戦国時代の山城の遺構が併存しており、落城後に改修、再使用されたと思われる。城はよく手入れされており、各施設は見栄えがする。


道 案 内
東名高速の相良牧之原インターを下りた牧之原IC交差点を左折し、国道473号に入る。国道473号を北に930m程行った沢水加東IC交差点を右手に進み、860m程北上した十字路で右折し、県道79号線に入る。県道79号線を2km程東進したT字路で左折し茶畑内の細い道に入る。細い道を1.3km程道なりに走ると勝田上公民館横のT字路に至る。T字路を左折して東に250m程行くとY字路があり、そこで右手に進み、150m程先の突き当りで左折し、県道233号に入る。県道233号線を500m程西進した案内板のあるT字路で左折し道なりに960m程行き左折すると駐車場がある。
ここから南西方向の直線距離で400mの所が城跡で茶畑の中を登って行く。

TOPへ 戻る




主郭南側の堀切       東尾根の連続堀切

二の郭土塁と虎口      三の郭土塁と虎口