横須賀城  No22442−01 (よこすかじょう)       

本丸南面の石垣 天守台

城郭の概要                  
別  名 : 敵応山、松尾城
所在地 : 掛川市横須賀
築城年 : 天正6年(1578)
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、水堀、石垣、桝形虎口
訪城日 : 平成23年2月26日

歴   史
天正2年(1574)武田勝頼は遠江へ侵攻し、徳川家康の家臣小笠原長忠が守備する高天神城を包囲し1ヵ月余で落城させた。長忠は武田に奔ったが、やはり高天神城の守備に当たっていた大須賀康高は徳川方に残り、浜松城へと退去した。
翌天正3(1575)年5月勝頼は、長篠合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫した。これを好機と捉えた家康は高天神城奪還の行動を起こし、当初は9km西方の馬伏塚城で高天神城を監視していたが、天正6年(1578)3月には馬伏塚城主大須賀康高に命じて高天神城との中間にあたる横須賀に本格的な前線基地となる横須賀城を築かせ、康高を城主とした。さらに周囲の三井山、山王山、宗兵衛山などに六砦を築き、高天神城の補給路を遮断し、天正9年(1581)3月ついに高天神城を落城させた。これにより東遠江から武田勢は一掃され、高天神城は廃城となり、横須賀城は所領地経営の拠点になっていった。
天正18年(1590)家康が関東に移封になると、康高の養子・忠政(榊原康政の実子)は上総久留里城へ転封となり、代わって太田金山城の由良氏の一族の渡瀬繁詮が3万石で入封するが、文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連座して改易となり、家臣有馬豊氏が領地を継いだ。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で東軍が勝利すると、有馬豊氏は丹波福知山城へ移封となり、忠政が6万石で城主に復帰、近世城郭として整備を行った。その後は、能見松平氏、井上氏、本多氏が城主となり、天和2年(1682)には西尾氏が2万5千石で入封し、以後、八代続いて明治の廃藩置県を迎えた。

構造と感想
横須賀城は、独立山稜である小笠山から南西に海岸に向かって延びる尾根先端部とその西側の平野に延びる砂堤を利用して築かれた、東西に長い連郭式の平山城である。
築城当初は、松尾山から南西の尾根上に築かれた山城であったが、17世紀中頃までに平地部に三の丸、二の丸が順に付け加えられ、山城と平城の特徴を備える平山城が完成したとされる。
構造は、東西618m、南北289m〜184mの規模で、東側の尾根続きを空堀で遮断し、その他の外周を水堀で取り囲んでいる。東の北隅が松尾山(山城時の主郭とされる。)で、その西側に一段下がって北の丸、北の丸の南西側に一段上がって天守・本丸・西の丸の主要部があり、松尾山の南側・主要部の東側裾に牛池を隔て三の丸が配され、三の丸の南西部に東大手門が構えられた。主郭部の西側は水堀を隔て二の丸が置かれ、御殿等が建てられていた。二の丸の南西部には西大手門が、西北隅には不開門が構えられていた。
なお、宝永4年(1707)の宝永大地震により地盤が隆起するまでは、城の手前まで海が迫り、城の三方が入り江や沼・深田に囲まれた天然の要害で、入り江には横須賀湊があって、物流の拠点にもなっており、この城は水陸の交通も押える重要な城であった。
しかし、地震後は横須賀城周辺の様子は一変し、地盤隆起で海は2kmも南へ後退し、湊は使えなくなり、経済面で大打撃を受けたとされ、西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られ、漸く小舟による物流が確保されたようである。
横須賀城の特徴は、本丸一帯に積み上げられた玉石垣と呼ばれる人頭大の丸い川原石を積み上げた石垣で、本当にめずらしい、特異な趣の石となっている。

道 案 内
東名高速道路の袋井インターを下りて右折し県道61号線に入る。南に750m程行き国道1号を越えて更に820m程南進した川井交差点を左折する。旧国道1号に入り東北東に540m程行き川井東交差点で右折する。県道41号線に入り道なりに10km程走ると左手道路沿いに堀跡の細長い空き地続き、その中に公園案内板が立てられている。その100m程先で左折した突き当りが城跡である。

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城址碑                         縄張り絵図               

 
北の丸側の切岸       二の丸東方向