諏訪原城  No22425−01 (すわはらじょう)       

主郭の横堀とカンカン井戸 主郭の土橋

城郭の概要                  
別  名 : 金谷城、牧野城、牧野原城、扇城、
所在地 : 島田市金谷
築城年 : 永禄12年(1569)
形  式 : 台城
遺  構 : 土塁、堀、掘切、土橋、井戸、虎口、馬出、
訪城日 : 平成23年2月26日

歴   史
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、今川氏は武田氏と徳川氏から挟撃を受け、永禄12年(1569)遂に今川氏真は北条氏を頼って小田原に逃げ落ち、駿河・遠江国を領した戦国大名の今川氏は滅亡した。これにより信玄が駿河国を、家康が遠江国を押さえ、その国境付近で両者が戦いを繰り広げるようになる。
永禄12年(1569)信玄は国境を流れる大井川の対岸(遠江領)の金谷台地に金谷城など五砦を構え、築城奉行を務めた馬場美濃守信房(信春)を初代城主とした。この金谷城が現在の諏訪原城の前身と推測されている。
元亀2年(1571)3月信玄は2万を越える軍勢を率いて駿河から大井川を越え遠江に侵攻し、高天神城を内藤昌豊に攻めさせ、縄張りや守備の固さを確かめると、北遠に抜け甲府に帰った。翌元亀3年(1572)には天竜川沿いに南下して遠江に進攻、二俣城などの諸城を落城させ、さらに浜松城の家康を三方ヶ原に誘い出し、これを撃破した。しかし、翌元亀4年(1573)4月信玄は三河を進軍中に病没し、その跡目は勝頼が継いだ。勝頼もまた遠江の獲得を目指し動いた。
天正元年(1573)勝頼は遠江に出陣し、武田信豊と馬場信房に命じて諏訪原城を築かせた。この際、城内の一角に武田氏の守護神である諏訪大明神を祭ったことから、諏訪原城と呼ばれようになったとされる。
翌天正2年(1574)5月勝頼は2万余の軍を率いて諏訪原城を出撃し、1ケ月に亘る攻防ののち6月17日高天神城の攻略に成功した。
しかし、天正3年(1575)5月勝頼は長篠合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫し、これを好機と見た徳川家康が翌6月に諏訪原城攻めを開始、城兵側は凡そ2ヶ月に及び籠城戦を繰り広るが、勝頼の後詰めを受けられず、遂に8月24日夜に城を捨て田中城や小山城に逃げ落ちた。
諏訪原城を奪った家康は、城名を周の武王が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を破った牧野(ぼくや)の戦いの故事にちなみ、牧野城と改め、城番衆として今川真氏、松平家忠、松平康親を充て、駿河進出の前線基地とした。
一方、諏訪原城の落城によって高天神城の補給は小山城からに限定され、やがて家康の包囲網によってこの補給路も断たれ、天正9年(1581)2月ついに高天神城も落城し、これにより東遠江から武田の勢力は一掃されれた。
天正10年(1582)3月勝頼は織田信長によって天目山に追い詰められ自害し果てると、駿河も家康の領国となり、諏訪原城は役目を終え、また、城番の康親も三枚橋城(沼津市)へ移封され、諏訪原城は空き城となり、一旦は掛川城の管理下に置かれたものの、天正17年(1589)頃に廃城となったと考えられている。

構造と感想
諏訪原城は、牧野原台地の北東部に南へ突き出した小さな台状地があり、その東縁辺部に築かれている。東海道の金谷から日坂間や大井川の水運を押さえ、南方に小笠郡や榛原郡を望む、武田氏の遠江侵攻の最前線基地であった。
構造は、台状地の東側に扇の形状に張り出した台地の先端 扇の要の位置に主郭を置き、その西側に巨大な空堀を隔てて二郭、さらに外側に外郭を構えている。西側を除く三方は崖地で、後堅固の典型的な武田流築城術の城郭である。今も遺構は極めて良好に残されており、独特な虎口の造りや空堀の圧倒的な迫力に魅了される。
主郭は幅広く低い土塁が囲繞し、西側が横堀と谷で区画され、横堀の北寄りに土橋が架かり二郭へと通じている。崖地となる北側には帯郭を、東側には二重横堀を、南側には中程まで横堀を伸ばして西端を竪堀で落としている。
二郭は「ヘ」の字の形をし、主郭を保護するように取り巻いている。西側は長大な横堀を穿ち、その内側に幅広の土塁を設けて、厳重に遮断している。さらに、二郭から出る4本の土橋の先にはすべて馬出を構え、攻守を兼ね備えた造りとしている。北側の3本の土橋に付けられた馬出は、武田氏特有の三日月堀を伴った丸馬出である。また、台地縁からの侵入を防ぐため、南端に角馬出を、北端には逆心曲輪を置き防備を固めている。なお、二郭の南東部は横堀で区画された中馬出となっており、南端の角馬出と北隣の丸馬出との重ね馬出になっている。
外郭は茶畑への開墾等による改変を受けているようであり、東西に伸びる横堀が残存する程度で明確性に欠ける。

道 案 内
東名高速道の相良牧之原インターを下りた牧之原IC交差点を左折して金谷相良道路に入る。金谷相良道路を北に5.4km程行った空港入口交差点を左折し、その先130m程の空港入口北交差点を左折する。そこから1.7km程道なりに進むと県道234号に出る。県道234号線を北西に440m程行って戻るように右折し、50m程先の左手に駐車場があり、その奥が城跡である。

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現地の縄張図

城址碑


カンカン井戸

 
主郭東側崖地の横堀      大手馬出の三日月堀

 
北の丸馬出を南より       二郭の北方向