栗原城  No21361−04 (くりはらじょう)       

連理の榊と竹中重治蟄居地 連理の榊前の削平地

城郭の概要                  
別  名 : 長宗我部盛親陣
所在地 : 不破郡垂井町栗原
築城年 : 戦国期
形  式 : 山城陣城
遺  構 : 土塁、空堀、
訪城日 : 平成26年5月5日

歴   史

大永5年(1525)北近江の浅井亮政の美濃侵攻に対して、稲葉備中守通則、九茂某、国枝宗龍・貞次らが栗原山で迎え討ったが、逆に稲葉、国枝らが討ち取れている。
永禄7年(1564)2月竹中半兵衛重治が主君・斎藤龍興を諌めるため、僅か16、7人で稲葉山城を奪い取り、8月に自ら城を龍興に返還し、斎藤家を去ったが、その翌年に旧領の岩手へ戻り、この栗原山で隠棲生活を送ったと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍に属した長宗我部盛親が伊勢より北上し、この地に陣を構えている。
盛親は、長宗我部元親の四男として天正3年(1575)に誕生し、天正14年(1586)の戸次川の戦いで嫡男・信親が討ち死すると、家臣達は後継者に盛親の兄・香川親和や津野親忠らを推したが、すでに他家の家督を継いでおり、また、元親が盛親を強く押したことで、天正16年(1588) 盛親が後継者に指名され、慶長4年(1599)元親の死により土佐22万石を継いだ。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、盛親は東軍につこうとするが、徳川家康への使者が西軍に阻まれ、やむなく西軍に加わり参戦、南宮山の東麓に約6千の兵を率い布陣した。
しかし、家康に内応する吉川広家が前方で動かず、後方にあった長束正家や盛親も動くことが出来ず、西軍の敗色を見て戦わずして帰国した。
途中、牧田川金谷で松ノ木城主徳永寿昌の軍6百人、今尾城主市橋長勝の軍3百人の東軍勢との間に戦い、土佐に逃げ帰った。
帰国後、盛親は懇意にあった徳川家重臣の井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが、家臣・久武親直の讒言から兄・津野親忠を殺害してしまい、この事が家康の勘気に触れ領地没収のうえ改易となり、大名としての長宗我部家は滅亡した。なお、親忠は藤堂高虎を通じて家康に働きかけ、長宗我部家存続の内意を得ていたとされる。そして、盛親は京都に移され、蟄居していたとも寺子屋の師匠をしていたとも伝わる。
慶長19年(1614)秋、盛親は豊臣秀頼の招きに応じ京都を脱出、かつての旧臣や浪人などと合流し1千人の軍団で10月6日に大坂城に入った。さらに長宗我部家の再興を願う旧臣たちも入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った。盛親は、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに、「五人衆」に数えられる主力部隊となった。
長宗我部軍は、大坂冬の陣・夏の陣で活躍したが、力及ばず大坂城は落城し、盛親は捉えられ斬首され、長宗我部再興の望みは叶えられなかった。


構造と感想

栗原山の標高210m〜220mの東山腹に南北約160m、東西約60mの範囲に削平地が広がっている。南部が九十九坊跡で、その一段上方に土塁囲いの方形区画があり、他の造りと異なることから長宗我部盛親が築いたと見られている。そして、帯郭で結ばれた北部が「連理の榊」と「竹中半兵衛重治閉居地」で、その入口は竪土塁で狭め、奥は広い削平地となる。この部分は、伝承に云う竹中半兵衛の閉居地をそのまま利用しているとされる。
なお、この地には、奈良時代創建された「九十九坊」と呼ばれる百余坊の寺院があったが、建武2年(1335)足利氏と新田氏の兵火により焼失したとされる。その跡には、石仏、石塔が累々と積み上げられ、また、木々もこんもりと茂っており、ちょっと薄暗く不気味さが漂う雰囲気である。


道 案 内
名神高速道の関が原インターを下りて国道365号を北に進み、国道21号線と交差する関ヶ原西町交差点で右折する。大垣方面に6.6km程行った宮代交差点で右折し県道215号線に入る。県道215号線を3.4km程南下して右側に「九十九坊・連理のサカキ」の案内板がある所で右折すると小型普通車がやっと通れる農道に入る。(左折すると八幡神社がある。)細い坂道を270m程上ると右の写真の清水寺公園前に至る。道路余白に駐車できる。
陣跡へは小さな案内板に従い公園の左手横から山道に入り、20分程で栗原九十九坊跡や竹中半兵衛隠居地に至る。

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  連理の榊手前の竪土塁      坊跡上方の削平地と土塁囲い
 
栗原九十九坊跡の石塔群        坊跡