岐阜城主居館 No21201−01 (ぎふじょうしゅきょかん)       

川原石の裏込め 石組み溝跡

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 岐阜市大宮町 
築城年 : 大永5年(1525)
形  式 : 居館
遺  構 : 石垣、土塁、虎口、井戸、
訪城日 : 平成21年8月29日

歴   史
守護代斎藤利隆(天文7年<1538>没)が稲葉山に居住した形跡があるとされる。その後、大永5年(1525)長井藤左衛門尉長弘、新左衛門尉(斎藤道三の父?)が守護土岐氏と守護代斎藤氏を追放し、新左衛門尉・道三が居城としたと考えられている。道三ののち義龍・義興と続いたが、永禄10年(1567)織田信長により稲葉山城は攻略され、信長が本拠を小牧城から井口に移し、岐阜と改称のうえ、山麓の居館と山城の大改修を行った。
永禄12年(1569)イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが岐阜を訪れ、信長に城館内を案内された際の建物等に関する記録が残されている。
天正4年(1576)信長は安土城に移り、岐阜城を嫡男信忠に譲るが、天正10年(1582)本能寺の変で信長、信忠が共に自刃し、その後は池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信(信忠の嫡男)と次々に城主が入れ替わり、慶長5年(1600)秀信が城主の時、関ヶ原合戦の前哨戦で敢え無く落城、廃城になった。

構造と感想

復元された喰い違い虎口
金華山の西麓に城主が居住したと伝わる「千畳敷」、「千畳敷下」と呼ばれる段築がある。
何次にも亘り発掘調査が行われており、おぼろげではあるが、居館の姿が明らかにされつつある。
「千畳敷下」からは、御殿と居館を隔てる巨石列の石塁と曲尺に折れる通路を持った食違い虎口が検出され、豪壮な姿が蘇っている。また、「千畳敷」と上方階段状の平坦地も発掘され、庭園の景石に州浜、池や蔵か茶室、石垣、石組み溝などの遺構が見つかり、フロイスが四階と表現した居館構造が推定出来つつある。
今後の発掘に期待がかかる。

道 案 内
東海北陸道の岐阜各務原インターを下りて国道21号岐大バイパスに左折し、西に5.3km程行った茜部本郷交差点で右折する。国道157号に入り北に2.7km行った岐阜駅前の神田町10交差点で右折し、さらに国道157号を北に2.5km程行くと国道は本町3交差点で右(東)に折れ、東に330m程行った本町1交差点で左(北)に折れる。北に280m程行くと右(東)に曲がり、東に290m程行った岐阜公園前交差点の前方山裾が居館跡である。
岐阜公園前交差点で左(北)に折れ、北に170m程先の長良橋南交差点で右折し100m程入ると岐阜公園有料駐車場がある。

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