和合城  No20521-01 (わごうじょう)       

主郭の東方向 主郭の石積み

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 埴科郡坂城町南条字岩鼻
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 :堀切、竪堀、土塁、石積み、
訪城日 : 平成30年5月1日

歴   史

築城年代は定かではないが、村上氏が葛尾城の南東の支城として、また、現在の坂城と小県郡の境城として築いたものと考えられており、虚空蔵山一帯に築かれた村上氏連珠砦の一つとされる。
天文22年(1553)、村上氏没落後は武田氏の家臣多田満頼が城将を務めたと伝えられ、天正10年(1582)武田氏滅亡後は、上杉景勝の属城となったが、真田昌幸が和合城を急襲し、上杉方を破り持ち城とした。慶長5年(1600)、関ケ原の合戦の際には、森忠政が上田城の真田昌幸に備えるため、この城に兵を入れたとされる。


構造と感想

和合城は、虚空蔵山から西の千曲川に向って張り出した支尾根の先端部「岩鼻」と呼ばれる断崖上に築かれている。この位置は、対岸の荒砥城とともに、埴科と小県の郡界を隔てる境城として、古くから軍事上重要視されてきた。
城は、尾根の突端頂部に本郭を置き、ここから東側の尾根筋上に二郭、三郭、四郭と連ね、東端を幅20m、深さ8m程の堀切で遮断した連郭式の山城である。この堀切を西に越えると長さ30m程で、2段からなる東側に土塁が付帯する四郭で、石積も見られる。四郭の西側は殆んど失われた堀切を隔て、約20m四方の三郭である。三郭の西側も失われた堀切で隔てられた5m程の切岸を上がると東側に土塁が付帯する二郭で、三郭と同規模である。二郭の西側が主郭で斜面は石積みになっていて、四囲に高さ1m程の分厚い土塁が廻っている。この主郭からの眺望は素晴らしく、絶好の物見台であることが実感できる。
なお、ふもとの地名を鼠(ねずみ)と云い、「寝不見」が転化したものと云われ、物見台としての和合城の性格を現しているとされる。


道 案 内
上信越自動車道の坂城インターを降りて左折し県道91号線に入る。西に1.4km程行った突き当たりの坂城IC入口交差点で左折し国道18号に入る。国道18号を1.9km程南下した鼠橋通り交差点で左折して東に300m程入った突き当りで右折する。南へ道なりに160m程行くと左手に墓地があり、墓地の中央を山に入る道がある。それを登る。墓地に駐車可。

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主郭の虎口と眺望              東端の堀切