武居城  No20451−01 (たけいじょう)       

主郭 畝状竪堀群

城郭の概要                  
別  名 : 洗馬城
所在地 : 東筑摩郡朝日村西洗馬大門
築城年 : 不明
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、横堀、畝状竪堀
訪城日 : 平成24年10月21日

歴   史
築城年代は定かではないが、三村氏によって築かれたと云われる。
三村氏は、承久の乱(承久3年(1221))での軍功により洗馬庄の新補地頭に補任され、鎌倉時代末期に下向し土着したと推測されている。入部当初は西洗馬に住していたが、のちに芦の田(本洗馬)へ移り、居城も武居城から妙義山城へ移したとされる。その時期は、大永7年(1527)菩提寺の長興寺を建立していることから、この時期と推測されている。
三村氏は、応仁の乱(応仁元年(1447))以降、信濃守護小笠原氏の家臣団に組み込まれて、天文17年(1548)小笠原長時が武田晴信(のちの信玄)と塩尻峠で対峙した際、三村長親は長時に従い出陣したものの、長時と意見が異なり仁科道外と共に戦線を離脱し、長時大敗の原因となった。
天文19年(1550)晴信が松本平を制圧すると武田氏に出仕したが、天文24年(1555)甲斐に招かれ府中一蓮寺に宿泊した際、謀反の疑いを掛けられ晴信に誅殺された。これに対し、三村一族は反武田の一揆を起こしたが鎮圧され、三村氏嫡流は没落した。その後、長親の弟 伊深城主後庁氏の養子となっていた出羽守久親が洗馬領を支配し、天正10年(1582)武田氏が滅亡して小笠原貞慶が旧領に復帰すると、長親の嫡子勘兵衛が久親の養子となって所領を安堵された。小笠原氏が関東へ転封となると勘兵衛は諏訪に退去し、やがて帰農したとされる。

構造と感想
武居城は、松本平南西端に位置し、鎖川右岸に鳥井峠から北に伸びてきた稜線の先端 標高871m、比高65mの城山に築かれている。西側麓にある武居城公園から城跡まで遊歩道が整備されているが、本来の大手道は城山の北麓から尾根筋を登っていた。
構造は、頂部に楕円形の主郭を置き、堀切を隔て南側に方形の二郭を配し、その南側背後の尾根続きを大小の堀切で遮断している。主郭には、西側から右回りに巡って南東部で坂虎口を通じ主郭内に至る帯郭が付帯している。主郭の北西下に二重堀切、北東下に大堀切を入れ区画し、さらに北側と西側に横堀を設け、特に西側の横堀からは畝状竪堀を落としている。見応えのある遺構である。
北東尾根の大堀切下には、2条の小堀切を入れ三つに区画された三郭を構えている。その下には二重堀切と小堀切を入れ、大手道を護っている。北東尾根からの東側への張り出しに対しても大堀切を入れ防御を固めている。
城の規模は小さいものの、各防御施設の規模は大きく、今も鋭さを留めており、この城の当時の堅固さを窺い知るに十分である。

道 案 内
長野道の塩尻ICを下りて直ぐに国道20号の西方向に入る。1.3km程先の高出交差点を直進し国道19号に進む。国道19号を2.5km程西進すると桔梗ヶ原交差点に至る。その交差点で右折し県道292号線に入る。西に道なりに1.5km程行くと奈良井川架かる太田橋を渡る。更に9.1km程道なりに走ると洗馬小学校の南東角の信号交差点に至る。そこで左折し引き続き県道292号線を1.6km程道なりに進むと小曽部川に架かる小曽部橋を渡る。1.9km程道なりに進むと西洗馬公民館バス停に至る。その60m程先で右折し南方向の細い道に入る。細い道を470m程南進し、T字路で左折すると武居城公園駐車場に着く。
そこから主郭まで遊歩道が付いている。

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           現地の縄張図                          登り口の冠木門

 
背後の大堀切        二郭の南方向

 
主郭を取り巻く帯郭      西側の横堀と畝状竪堀