福与城  No20383−03 (ふくよじょう)       

主郭と土橋(勘解由坂) 二の郭

城郭の概要                  
別  名 : 箕輪城、鎌倉城
所在地 : 上伊那郡箕輪町福与字南城
築城年 : 不明
形  式 : 平山城
遺  構 : 堀、土橋、櫓台、
訪城日 : 平成30年3月17日

歴   史
築城は鎌倉時代と伝えられるが、築城者は定かでない。
天文年間(1532〜55年)藤沢頼親が城主であったが、天文14年(1545)武田晴信(のち信玄)の伊那攻略にあい、城に立て籠もって50日間に及び小笠原長時や下伊那衆の来援を待ったが、援軍の望みが消え、遂に弟権次郎を人質に出し開城した。城は放火破壊され、頼親は流浪の身となった。
天文18年(1549) 『高白斎記』に武田氏が福与城の鍬立を行なったことが記されているが、その後は史上に現れず、一時的な利用に留まったと思われる。
頼親は、流浪ののち上洛し三好長慶に仕えたが、天正10年(1582)織田信長の甲州征伐で武田氏が滅び、信長も本能寺に斃れ、無主となった箕輪の地に戻り田中城を築き決起したが、高遠城を奪還した保科正直が徳川家康に寝返り、田中城に攻め寄せ、防戦の末自刃、藤沢氏は滅亡した。

構造と感想
福与城は、天竜川東岸の標高710m、比高40mの河岸段丘上に築かれた平山城である。北側は鎌倉沢、南側は南沢が入り込む要害地形で、東側のみが地続きとなっているが、城域を区画する堀は消失しているようである。
城域は、東西約330m、南北約440mで、空堀によって北城、本城、南城(駐車場北の乳母屋敷、東の権次郭、宋仙屋敷、赤穂屋敷など)に区分されている。本城は、東側に主郭、空堀を隔て南側に一段低い二の郭を設けている。主郭は南側に一段低い腰郭が設けられ虎口受け機能を果たしている。また、主郭の南東隅が一段高く櫓台とされる。北城は、主郭より一段低い大きな郭である。南城は、西より東に向け高さを増す雛段状に屋敷跡が並んでいる。
本城を区画する空堀は、今も相当な深さがあり、武田軍を相手に50日持ちこたえた堅固さが感じられる。

道 案 内
中央道の伊那インターを下りて県道87号線の南東方向に入る。そのまま南東方向に2.8km程行くと国道153号との水神橋西交差点に至る。その交差点を左折し440m程北東方向に走り双葉町交差点で右折し直ぐに新水神橋を渡る。その先290m程に県道19号線との新水神橋東交差点がありそこで左折する。県道19号線を北東に5.5km程走ると箕輪南小学校前交差点に至り、右手前に箕輪町南小学校がある。その交差点で右折しふるさと農道を550m程道なりに進むと十字路があり右手に福与城跡への案内板がある。十字路を右折して西に290m程行くと右手に福与城跡駐車場と説明板がある。説明板から北に100m程入ると城の中心部である。

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主郭上段の北西方向        主郭と南城間の空堀

 
主郭の櫓台           北城の北西方向

 
主郭・二の郭間の空堀      本城と北城間の空堀