箕輪城  No20383−02 (みのわじょう)       

南西隅よりの郭内 西側土塁と空堀

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 上伊那郡箕輪町中箕輪字木下
築城年 : 室町時代
形  式 : 崖縁城
遺  構 : 土塁、堀、虎口
訪城日 : 平成30年3月17日

歴   史
築城年代は定かではないが、箕輪氏によって築かれたと云われ、箕輪氏は木曾氏の末流 高遠太郎義信を祖とし、その嫡男 箕輪左衛門尉義雄が文安2年(1445)卒と伝えられており、室町時代初期の築城と考えられている。
天文年間(1532〜55年)はじめ頃は、福与城主の持ち城となっており、木下総蔵、福与城主藤沢頼親の養子 左衛門尉重時が城主であった。天文23年(1554)武田信玄の伊那侵攻により藤沢頼親は、伊那の地を追われたが、天正10年(1582)武田氏が織田信長に滅ぼされると、福与城に拠って旧領を回復しようとしたが、保科正直に攻められ滅亡し、箕輪城も廃城になったと云われる。

構造と感想
箕輪城は、養泰寺裏手の西側にある台地の先端に築かれている。
構造は単郭で、現在は養泰寺の墓地となっており、その東側を除く三方に土塁、南側と西側には空堀も残っている。東側は高低差の大きい切岸で、南端には空堀から続く竪堀が落とされている。
土塁の北西隅と南西隅にやや西側への張り出しが見られる。

道 案 内
中央道の伊那インターを下りて県道87号線の東方向に左折する。県道を820m程東進した「駒美交差点」を左折し県道88号線に入る。県道を北に4.9km程道なりに行った右手に「養泰寺入口」の縦長の大きな案内板がある十字路で右折し町道56号線に入る。東に道なりに1km程進むと下り坂となり前方に養泰寺の屋根が見え、右手に「箕輪城」の看板が立っている。看板の奥が城跡である。
(看板付近に駐車スペース有)

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南側の空堀