春日城  No20322-04 (かすがじょう)       

主郭の南方向 主郭背後の大堀切

城郭の概要                  
別  名 : 穴小屋城
所在地 : 佐久市春日字憧法寺
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、
訪城日 : 平成30年4月30日

歴   史

築城年代は定かではないが、鎌倉時代の初頭から室町時代にかけて、この地を支配した祢津氏庶流春日氏により築城されたと云われる。
永正13年(1515)望月地方を治めていた望月氏に攻められ、祢津氏系春日氏は滅び、その後は望月氏系春日氏の居城となった。
天文10年(1541)甲斐の武田氏が佐久へ侵攻すると、望月氏に代わって、依田系の芦田城主芦田信守が城主となった。芦田信守、信蕃(後の依田信蕃)は、武田氏に仕えて信濃先方衆として各地を転戦し、天正3年(1575)長篠合戦の時には遠江国二俣城の守将となって固く守り、病没した信守の跡は信蕃が継いだ。天正10年(1582)信蕃は駿河国田中城の守将であったが、ここでも固く守り、武田勝頼が自刃したのちに開城している。
武田氏滅亡後の天正壬午の乱で徳川氏の家臣となった依田信蕃が、真田昌幸の助力を得て春日城を本拠に望月城はじめ佐久の諸城を攻略したが、天正11年(1583)大井行吉が守る岩尾城を攻めた時、弟信幸と共に鉄砲に撃たれ討死した。跡を康国が継ぎ、松平姓を賜って松平康国と名乗り、小諸城六万石を領した。
しかし、天正18年(1590)小田原征伐の上野国石倉城攻めで討死し、家督は弟康勝が継ぎ、家康が関東移封となると武蔵国と上野国に三万石を与えられ移った。この頃に春日城も廃城になったと考えられている。


構造と感想

春日城は、鹿曲川渓谷の最奥部、鹿曲川と支流細小路川の合流点に向かい南から伸びてきた細い丘陵の先端部 に築かれている。北方に僅かに視界が開けるが、他は山稜に囲まれている。鹿曲川に沿って谷を下ると天神城や望月城に通じている。北麓に居館を構え、南方の山中には小倉城、大小屋城、茨小屋城などの支城を配した大規模な山城である。
城の構造は、標高892mのピークに主郭を置き、南面に土塁を付帯させ、その背後尾根筋を一条の大堀切と二条の小堀切によって遮断している。主郭の南側に一段下がって北面に土塁の付帯する副郭があり、副郭の北側に堀切を挟んで一郭、箱堀、秋葉神社が鎮座する二の郭が続いている。
二郭の北面に低土塁が築かれており、北と北西に派生する支尾根に堀切が入れられている。北東へ伸びる尾根には上下を堀切で区画した段郭が連なり、下の堀切を挟み北面に土塁が付帯した広い三の郭がある。三の郭北側に堀切が入り、その下方にも小段郭が連なっている。主郭から東へ伸びた支尾根の中腹にも段郭が連なっている。
信濃の山城は、いずれも細尾根を断ち切る堀切が鋭く見応えがあるが、この城の背後の三重堀切も十分な見応えである。


道 案 内
国道142号の望月交差点で南へ曲り県道151号線に入る。県道151号線を480m程南下した協東橋東交差点を左折し、引き続き県道151号線を走る。3.7km程道なりに南下した春日小学校入口交差点で右折し180m程西進した十字路で左折する。70m程先で道路が左に折れる直ぐ右手が登り口で、山裾に鳥居がある。そのまま40m程進むと左手に公民館があり、駐車可。

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登り口                  背後の小堀切


南より二の郭を見る            二の郭の北面土塁


堀切と三の郭北東方向        三の郭の南面土塁と堀切