塔ノ原城  No20220-02 (とうのはらじょう)       

本郭と二郭の仕切部分 本郭背後の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 長峯城
所在地 : 塔ノ原城は自落し、安曇野市明科中川手字城山
築城年 : 鎌倉時代後期
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、三ヶ月堀、石積、虎口、堀切、竪堀、
訪城日 : 平成24年10月20日

歴   史
鎌倉時代の中頃に塔ノ原氏によって築かれたと云われる。
塔ノ原氏は、平安末期から佐久・小県郡に勢力を扶植した滋野氏の流れを汲む海野氏の一族とされ、鎌倉中期頃に筑摩郡会田に地頭として進出したと伝えられる。『真田家系図』」には海野幸次の孫、小太郎幸春が真田に、次男幸持が会田に、三男幸次が塔の原に、四郎幸元が田沢に、五男幸棟が刈谷原に、六男幸国が光に入部したとあり、塔ノ原氏は真田氏と同族である。
塔ノ原氏は、応永7年(1400)の「大塔合戦」では宗家海野氏に従い村上氏の大文字一揆に加わり、信濃守護小笠原長秀軍と戦ったが、文明年間(1469〜86)以降、小笠原氏の勢力が拡大し、塔ノ原氏はその支配下に入ったようである。
天文19年(1550)武田晴信は信濃守護小笠原長時の討伐を決意し、7月15日未ノ刻(午後2時頃)戦陣を整え、酉ノ刻(午後6時頃)わずかな戦闘でイヌイノ城(埴原城)を攻略すると、子ノ刻(午前零時頃)には大城、深志、岡田、桐原、山家の5城が自落した。その後、晴信は府中支配の拠点として深志城を惣普請し、城代として馬場民部信春、日向大和守是吉を置き、府中周辺の在地領主を攻略させた。この時、会田、塔ノ原、田沢、刈谷原、光、平瀬、古厩氏が武田氏に従わなかったため、天文20年(1551)10月平瀬城、同21年小岩嶽城、同22年4月刈谷原城を攻略、会田虚空山城に放火。これにより塔ノ原城は自落し、塔ノ原氏は武田氏に降伏、塔ノ原城は破却された。しかし、後に海野氏が入城し、塔ノ原氏はその副将となり復帰を果たしている。
天正10年(1582)武田氏が滅亡し安曇野一帯は木曽義昌に与えられたが、3ヶ月後本能寺の変で織田信長が斃れると、武田氏の旧領を巡って北条氏と徳川氏が争うところとなり、府中には徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が侵攻し、在地勢力の攻略を開始した。塔ノ原三河守幸貞は攻略以前に貞慶に降伏し、日岐城攻略の先鋒を務めた。しかし、かねてから貞慶に反感を抱いていた塔ノ原三河守は小岩嶽城主古厩盛勝、稲倉城主赤沢清経とともに上杉氏に通じて謀反を企てたことが発覚し、天正11年(1583)2月12日に赤沢氏は切腹、13日に塔ノ原三河守と古厩因幡守は松本城で謀殺され、塔ノ原城も小笠原軍に急襲され落城したとされる。

構造と感想
塔ノ原城は、長峰山から犀川と会田川の合流点に向け北西へ張り出してきた尾根の標高750m、比高210mのピークに築かれている。
規模は南北500m、東西150mと大規模な山城で、尾根続きの南側を6条の堀切で厳重に遮断し、ピークに本郭と二郭、東側の腰郭からなる主体部を構え、さらに堀切を隔て東側に5段の腰郭を設け、その下部先端に堀切と土塁で囲んだ塹壕を築き、裾には三ヶ月堀を入れている。そこから下方の大手である尾根筋にも13の郭や堀切が設けてあると云う。
本郭と二郭は1m程の段差で仕切られ、本郭の南面から東面、二郭の東面から北面に土塁が付帯し、外面の切岸には石積が施されていた痕跡が残る。二郭の南東隅に虎口が開き、腰郭へ降りていく。
要害性の劣る背後の尾根筋や東側斜面、尾根先端部の防御施設に大きな工夫がなされており、見所が多く、楽しく見学できる城跡である。

道 案 内
こや城の駐車場から県道302号線を150m程南東に行った所で右折し「天平の森」に向かう長峰山林道に入る。林道を2.7km程道なりに上って行くと左手に「長峰山遊歩道 山頂へ」の案内板がある。そこで左折し細い道に入り、200m程を進んだ大きな右カーブの始まり付近の左手に城址の解説板がある。そこから北西に突き出た尾根先が城址で、余白に車を停め山道に入って行く。

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塹壕状の郭                三ヶ月堀


二郭の虎口と石積           5段の腰郭北側の竪土塁