こや城  No20220-01 (こやじょう)       

主郭北東方向 主郭背後の堀切痕

城郭の概要                  
別  名 : 小屋城
所在地 : 安曇野市明科中川手字こや  
築城年 :
形  式 : 丘城(550m/40m)
遺  構 : 堀切、竪堀、石垣
訪城日 : 平成24年10月20日

歴   史
以下、明科町教育委員会発刊の「こや城遺跡発掘調査報告書」より
この城砦跡は、中世鎌倉時代のはじめに筑摩郡に進出した小県郡の海野氏の一族である塔ノ原氏が、その本城(要害城)を長峯山中の塔ノ原城に、その居館を長峯山脈の西麓にある塔ノ原部落の殿村に営み、中世末までこの地方に繁行して、府中(松本)小笠原氏の幕下となり、戦国時代を迎え、甲斐の武田信玄の侵略に逢って、小笠原長時にそむいて武田氏に降参し、天正10年((1582)3月 武田氏の滅亡後、旧領を回復した小笠原貞慶に亡ぼされるまで、その本城とともにこや城も築造したのであろう。即ち、この城館はこの地方の部将の本城でなく、塔ノ原・大足・明科の地帯を領知した塔ノ原三河守の一支砦であり、同時にその部将の居館も置かれたと推察される。この地点は会田口の押えであるばかりでなく、生坂谷への押えであり、同時に監視哨または番所的役割をもって作られたものであろう。
「こや」の地名は、「小屋」が正しく、しっかりした本城に対し、戦時体勢における臨時の城館をさすもので、塩尻市の大小屋、松本市村井の小屋等いずれも史上に明らかである。この小屋城が小谷城と書かれ、また古屋城などと書き誤られてきたのである。前記元緑11年(1698)の書上げに「城主存じ奉らず候」とあるのは、この間の事情を間接に語るもので、この地が塔ノ原城氏の支砦で、城というには余りにも小さく、本城でないため、守将の名が忘れ去られたものであろう。
この城砦を概見すると、主郭部は狭小であるが、最も高所にあり、これは近世城郭の天主台にあた り、一応望楼的な建造物もあったと思われる。下段の副郭には、守将の居館もおかれ防備のための施設も設けられたのであろう。

構造と感想
こや城は、会田川が犀川に合流する手前で、北東へ張り出すように大きく蛇行した所へ南西から北東に向けて突き出てきた尾根の先端部に築かれている。二方は会田川に囲まれ、背後は長土橋状の細尾根となっている要害地形で、会田川を挟んだ対岸には茶臼山城もある。現在は城山公園となっている。
県道302号線から北東に延びる長土橋状の細尾根を通り抜けた一段高い狭小な頂部に主郭が置かれ、その北東下に二ノ郭が続いている。この郭は公園整備でゲートボール場にされたようである。二ノ郭の北西面には帯郭が付帯し、長土橋状の細尾根には三条の堀切が入れられ遮断が図られている。
なお、主郭や北西面の山裾に川原石を積み上げた石垣が残るようである。
全体的に風化や公園化の影響により城砦の雰囲気は余り感じられない。

道 案 内
長野自動車道の安曇野インターを降りた直ぐの安曇野インター交差点を右折しグルメ街道に入る。東方向に800m程行くと犀川を渡る。渡り終え340m程東進した田沢交差点で左折し国道19号に入る。国道19号を北に6.6km程行くとJR篠ノ井線明科駅前に至る。駅前から400m程北上した会田川橋手前の東栄町交差点で右折し県道302号線に入る。東に260m程行くと左手に城山公園駐車場がある。駐車場の西端が登城口である。

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二ノ郭を見下す